人には言えない趣味。

 誰にも人には言えない趣味の一つや二つはあると思うけど、実は僕はデジカメを買って以来、電線と電柱を撮ることがなかなか楽しい事に気づいて、以来結構撮ったりしているのですよ。いや、わざわざ電柱が良く見えるポイントに行って撮るとか、そんな面倒な事はせずに運転している時とか、信号待ちしているときに撮っている。間違っても「他人とはちょっと違う俺」とか「他人の知らない俺」を演出しているわけではない。が、写真を撮っていると空を見上げることになって、時間によって変わっていく空の色や、移りゆく雲の形の変化を見る事ができる。普段の生活で空を見上げる事はなく足下のボールを見ている事が全然多いので、こういった「普段気にしない景色」にはおおいに魅力を感じる。なかなか新鮮で、なんだかロマンチックで、なんだか不思議な気分なんだよね。
 いつか花火をした時に、星空を見て普通に綺麗だな、と思ったのを思い出す。花火の魅力はその色や形や音がもたらす驚きにもちろんあるのだと思うけど、普段あまりしない「空を見上げる」という行為自体が精神的にいいのだろうな、と思う。

投稿者 yuki : 23:35 | 2005.07 | コメント (2) | トラックバック (0)

アツイ日には

 それにしてもあつい。どこかに出かけようにも、勇気というか、やる気が出ないので、とりあえずドンキーに行って、必要なものとそうでもないモノをあれこれ買う。ついでに車にガソリンを入れる。熱さから逃げるように、家で井筒監督の「パッチギ」を見る。なかなか面白かった。
 陽が落ちてから車を洗車する。車は外が汚いのは全然気にならないけど、中が汚れているととても気になるので、あつくても汗をダラダラ流しながら掃除した。
 掃除をしながら周りの人を見ていると、本当に車を愛している人もいるなあ、と感心する。すごく丁寧に、まるで愛しいものに接するようにやさしさを込めてみんな掃除していた。そんな車は幸せだ。
 で、夜になってSEVILLANASの練習に参加。楽しくボールを蹴った。終わってから團長とピルマさんを交えて、「名言・格言」を披露しあう。ホトンドが「キャプテン翼」と「スラムダンク」だったけど。

投稿者 yuki : 01:02 | 2005.07 | コメント (1) | トラックバック (0)

水族館

 うだるような熱さの中、今日は池袋の水族館に行って来た。サンシャインの水族館はやっぱりその中でも老舗の一つなので、とりあえず一回は行っておかなきゃと思っていた。が、水族館の入場料としては結構高い1800円。ま、それだけの内容はあるだろうと勝手に期待しながら向かう。
 結果からいうと、高すぎ!水槽の数が少ない上、一通りまわっても30分で足りる。やっぱり目玉となる大型の魚はイルカが一匹。アシカが二匹。一番の目玉は大型の淡水魚だろう。ま、クリオネ等の小さなものや可愛いカワウソもあるからそこそこは楽しめる。ペンギン、マンボウ、(両方かなり疲れている様子)もいる。よく考えたらビルの上にある水族館なので、良くやっている方だろう。が、僕としては葛西臨海公園をお勧めします。近々品川をレポート予定。
 で、そのサンシャインのエレベーターを降りたら、さるまわしと言うのをやっていて、(サルを調教して芸をさせるやつ)こっちが面白かった。ちゃんとした出し物ではなく、ただ場所を借りてやっているだけなんだけど、日光サル軍団とはちがくてお笑い要素が満載。お兄さんがサルに
「竹馬を使ってたってみろ」
というと、サルが手をつかって怪しい動きをして、お兄さんが
「立てるのはそっちじゃないよ!」
と突っ込む下ネタありの猿回しだった。
 水族館はやっぱり非日常の空間だからさ、それをいかに演出できるかがポイントとなる。普段見れないでっかい魚が優雅に泳いでいたりすると子供心に火がともって、素直にビックリする事ができる。生き物の形態は様々で、「どうしてコイツはこんな姿になったんだ?」なんて考えながら帰る。魚のくせに穴を掘ってそこに縦になって入るヤツもいれば、明らかに泳ぐのに適さない形にやつとか、蛍光色の魚とか。
生命は不思議だ。

投稿者 yuki : 00:10 | 2005.07 | コメント (0) | トラックバック (0)

NIKE iD

みなさん、NIKE iDって小存知ですか? NIKEのスニーカーのパーツを自分好みの色にカスタマイズして、自分だけのシューズが作れるシステムなのである。ネットで注文して、納期は3週間ぐらいで価格は15000円前後。上の写真がそうなんだけど、結構面白いシステムだよね。と言うわけで、やっぱりFloriano'っぽい配色にしたら上のモデルができたんだけどさ。(フォトアルバムも見てね)
 選べるシューズの種類限られていて、さらにそのシューズで使える色も限られているから選択肢はそこまで広くないんだけど、やっていて面白い。

フォトアルバム

投稿者 yuki : 14:01 | 2005.07 | コメント (2) | トラックバック (0)

沖縄の思い出

 Floriano'内ではいよいよ終わりそうな「沖縄ブーム」だが、何を隠そう、私も過去に一度だけ沖縄に行ったことがある。あまり覚えていないけど、季節からいってきっと今頃の時期で、ちょうど台風にぶつかった。人生初めての台風だったので、夜が怖かったのを覚えている。風の音がすごくて、夜は明けないんじゃないかと思った。翌朝にはローカルなニュース番組では近くの民家の屋根が剥がれて飛んでいる映像が映っていて、俺の所は運がよかったのかなあ、と無責任に思った。
 沖縄の夏は今でも思い出せるぐらいの熱さで、2m前から蜃気楼が見えた。イソッチも行ったと思う美ら海水族館がある公園を歩くときには限界を感じた。最近その頃の事を思い出して、水族館に行きたいと思う。近々品川に行こうかなあと思っている。
 が、やっぱり沖縄と言えば、米軍基地が一番印象的だった。我が物顔で街を練り歩くブラザー達と「進入禁止」とかかれたフェンスが永遠に続くあの景色は忘れない。実は基地の中に沖縄が入っているのでは、と当時思った。地理的、国土的にはそうでなくても、メンタル的にはそうなってしまうよね。

 

投稿者 yuki : 23:52 | 2005.07 | コメント (3) | トラックバック (0)

案外たいした事なかった。

 いやー、テレビ等ですっと台風のニュースをしているから、どれだけの台風が来るかと思って少しびびっていた。せっかくに休みだし、夜には個人参加行きたい、なんて思っていたからどうなるだろうと不安だったけど、千葉は案外たいした事なかったのかなあ。個人参加の人数も気になっていたけど、フルで集まっていたね。もちろん、パーマ@7、ついに違反の切符が来た@11が来ていた。終わってから先日の試合に話や、これからの話を少しする。
 今日の昼間はいつも行く所にラーメンを食べに行った。今日はなんだかスタッフが全員違っていて、いつも頼む
「みそコーン」
をお願いしたら、同じ味噌でも何種類かあるという。僕は今までそんな事も知らなかったので、何のことと思って聞いたんだけど、どうやら今まで何種類かあったらしい。以前いたスタッフとは軽い顔見知りになっていたので一抹の寂しさを感じた。
 そう言えば、以前にも同じような事があった。千葉駅の西口に昔「好好」(はおはお)というお店があって、僕は好きだった。そこは中国人の家族が経営している様だった。結局その店はいま潰れてもうないんだけど、オープン当時の一番の問題は「日本語を話せるスタッフがいない」事だった。注文しても、全然違う商品が出てくるんだよね。それでも美味しいからいいんだけど。注文取ってくれるのはお婆ちゃんだしさ。日本語が出来ないのか、耳が遠いのかが判断つかないし。
 ある日行ったら、注文と同じ商品が出てきてビックリした。でも食べてみたらあんまり美味しくなかった。それはそれでショックだった。僕は本当に味音痴だけど、それでもわかったなあ。
そういう事ってあるよね。

投稿者 yuki : 01:38 | 2005.07 | コメント (0) | トラックバック (0)

フットサルとウェブサイト。

 明日台風が来るらしい。海の男、團長がいうのだから間違いない。明日は休みで美浜の個人参加に行こうと思っていたのに。ま、團長に取ってはそれどころじゃないはず。船がどれだけ揺れるのか僕には想像もつかないけど、まさか船酔いする訳がない!ね。
 今日は県リーグや関東リーグのチームのウェブサイトを色々と見た。少しまえまではサイトのないチームもあったが、今では関東リーグのチームには全てウェブサイトがある。サイトには色んなレベルのものがあるが、中にはプロが作っているものもあって、すごく格好いいのもあるね。FIRE FOXはちょっとしたゲームもあるしね。ウチのもそれぐらいにしたいと少しあこがれる。これが県リーグとなるとサイトをもたないチームもあるし、きっと公表されてないものもある。関東と県の差はこれだけ大きいのかなあ、と思った。
 関東リーグともなれな、「ファン」みたいな存在もいるだろうから、サイトの果たす役目は大きいのだろう。チームの予定や自分の好きな選手をより知ることができる。中には選手のブログを書かせているサイトもあって、非常に面白かった。それだけの大きなサイトともなると、書いていいこと、ダメな事など、乗せる情報に対する責任が伴うはず。この判断がちゃんと出来ているかどうかはとても大事な事で、フットサルがサッカーや野球に負けないスポーツであって、それを支える社会的な基盤と常識をもった人たち動いている世界であるって事を証明ている。サイト管理者というちゃんとした人がきっといるのだろう。金かかっているんだろうなあ。
 ウチも早くファンとか出来ないかなあ。出待ちとかされてみたいよね。

投稿者 yuki : 00:31 | 2005.07 | コメント (1) | トラックバック (0)

 勝利の味は格別。

 昨日はみなさん、お疲れさまでした。勝てて本当に良かったですね。Monteroserさんとは何度も対戦して、勝ったり引き分けたり負けたりしていたし、チームとして、態度的にも戦術的にもいいチームなので、そう言ったチームに勝てたのは正直に嬉しい。なんだか、練習試合の相手をして欲しいチームだよね。点差はついたけど向こうは2試合目だったし、こっちは3度くらいポストに助けられたのを忘れてはいけない。実力には差はないし、個人技では向こうの方が上とも思えるのだが、僕らは声と気合いで勝ったと言える。毎度のことながら、崖っぷちの我がチームは毎試合にそのモチベーションで向かわないといけない。
僕はと言えば、守備時にシュートを止めようとしてスライディングをした時に、頭を打ってムチウチ症になってしまいました。首の右側が痛くて、動かす事は出来るのだが、寝る姿勢で首を上げる事ができない!ま、でも勝ったからいいという事にしようか。
 試合後、ピルマ、ヤマシ、ザワ、フク、オーナー、イハのメンバーで安楽亭に遠征しました。フットサル以外の話題もたくさんあったが、みんな安心した表情だった。その中で、「もし中学生に戻れるのなら」、何をする?という、本当に中学生レベルの話しになったんだけど、殆どの人が「フットサルを真面目にやる」という事だった。ま、下手で弱いチームなのに真剣にフットサルを語る所がこのチームのいい所(上手い人から見ればウザイだろうけど)だろうと思った。
 いつも崖っぷちの状態は終わらない。いつもそう言っていると思うけど、これからが正念場だ。強いチームとの対戦がが続く。負ける事を前提とした計算もしないといけないのかも知れない。
「何を弱きな事を言っている!勝ちに行こうよ!」
と言うのは簡単。そして格好いい。でも、成長というのは、自分の力がどのぐらいなのかを理解してから始まる。
「私は何もしらない。でも自分が何も知らないことを知っている」(ソクラテス)
という格言があるように、負ける可能性を認める事のできるチームは強い。絶対にそう思う。ま、これは監督やコーチの仕事なのかも知れないけどね。

投稿者 yuki : 15:17 | 2005.07 | コメント (2) | トラックバック (0)

勝利!

 いやー、みなさんお疲れ様でした。
なんとかイワに顔向けできる結果になりましたね。
なんとか次に繋がる結果でしたね。
「なんとか」ばかりだけど、シーズンを通して考えれば、予想道理の結果だったとも言える。
今日は先制されても誰も諦めなかったし、ダウナーな雰囲気にもならなかった事はすごく良かったと思う。やっぱり監督も来ていたし、メンバーもイワ以外はみんな来ていたし、生死が心配されていた松っつんも来ていたしね。心強かった。ま、大変なのはこれからだ。 ここの所ずっと勝ってなかったので、やっとかという感じもある。個人的には今日の一点目は僕のミスだったので、後半になんとか取り戻せて良かった。心配はイソのヒザ。一瞬ヒヤリとした。みんなを心配させないように本人は強がっていたけど、ゆっくり休んで欲しい。

投稿者 yuki : 00:04 | 2005.07 | コメント (3) | トラックバック (0)

決戦は土曜日。

 先の参入戦の前、僕はかなり気合いが入った日記を書いた。大分前のことに思えるけど、そう遠くはない「最近」とも言える。あれから僕らはたくさん練習し、パワーアップしたと思っているので、今の僕には焦りの気持ちはない。メンバーも変わったし、戦術・技術に関しては少なからず進歩しているはず。ただ、昨日團長が言ったように、
「最後は気持ち」
なのである。
 そう言えば、僕は参入戦の直後インフルエンザになった。参入戦で何がいけなかったのかを考える間もなく、うなされていた。でも、きっと思っていた事は一つ、やっぱ気持ちかな、と。
 明日は気持ちを見せよう。それだけ、だよね。

投稿者 yuki : 00:58 | 2005.07 | コメント (0) | トラックバック (0)

寿司の配達。

 で、大阪で僕は寿司やとビデオ屋のバイトを掛け持ちしていた。どちらも長く続けて、どちらにもそれなりのハプニングがあった。でもやっぱり配達のバイトが一番すごかったかなあ。何が一番問題かって、免許取ってばかりで運転経験がなかったのに、仕事を始めちゃった事だよね〜。応募資格には「運転経験1年以上」とあったんだけど、人がいなくてあっさり採用された。やっぱり貧乏学生には食べ物系のバイトは必須で、常に一人で行動するので気を使わない楽しいバイトだった。が、やっぱりハプニングが色々あったなあ。

運転初心者なのに、6車線もある大通りを運転した時は本気で怖かった。車線変更出来ずにずっと直進した。
そのスジの方達の事務所に配達に行った時はビビッタねえ。
ラブホテルから注文が入って、実際届けた事もあった。
風俗店の女の子から注文が入って、店に届けた事時は変な緊張をした。案の定女の子は半裸な格好で出てくるし。
ゴミ屋敷(マンションだったけど)への配達はやばかった。臭いが。
大阪でサミットが開かれ、100メートル間隔で警察に止められたときも怖かった。

その店の近くに大阪拘置所があって、良く黒いベンツが止まっていて、その周りを黒いスーツを着た怖いお兄さん達がよく止まっていた。おつとめご苦労様です!状態なわけなんだよね。ここで車をぶつけたらきっと帰れないんだろうな、という変な緊張で運転した。

 でも、一番大変だったのはその拘置所に配達に行ったとき。まず入る前に車を軽くチェックされ、つにはボディーチェック。で、酷いときは板前さんが作ったいなり寿司や握りをチェックされる事もあった。拘置所は壁に囲まれているだけあった、不気味な静かさが所内を満たしていて、恐ろしい程広いのにまったくもって人がいないんだよね。誰も歩いてないんだ。誰かに配達先の部屋を聞こうにも、誰もいないからずっとウロウロしているしかない。受刑者はみんな部屋に入ってるから当たり前だけどさ。廊下や壁がぴかぴかに磨かれ、ちり一つ落ちていない。ちょっと特別な空気だったね。
 
 色んな経験をさせてもらったバイトだったなあ。土曜日とか忙しい時は、交通ルールなんて守ってられないしさ、怒られるのは配達する俺だからさ。工事中の道であまりのスピードの出し過ぎで、軽自動車なのにジャンプをしたことがあった。その時は助手席に乗せていた器が空中に飛んでいるのがスローで見えた。やべえ、と思ったけどやっぱり命が大事だから、とりあえず車を止めて寿司の確認をすると、綺麗の盛りつけされていたものが全然変わっていた。変わっていたけど、上手い具合にすべての寿司が45度の角度で並んでるの。盛りつけが全く変わっているんだけど、全部が同じで角度で変わっているから、そのまま出せそうだった。で、そのままお客様にだした。苦情の電話がかかってくるんじゃないかとびくびくしたけど、大丈夫だった。ラッキーだった。




投稿者 yuki : 01:18 | 2005.07 | コメント (0) | トラックバック (0)

サトコさん

 昨日、大阪にいた頃の事を書いたら、色々と思い出した。7〜8年前の事だけど、結構覚えてないものだよね。
 僕が通っていた学校は、聴講生という制度があった。学校やクラスには属さないけどある程度のお金を払って授業を聞きに来るというシステムだ。で、そのシステムを利用して、ぼくらのクラスの40代ぐらいの女性がいつも参加していた。年は40ぐらいだったけど、道を歩けば男は誰でも振り返るぐらいの美人で、どう見ても40代には見えなかった。顔もそうなんだけど、プロポーションも完璧で、クラスのアイドルだった。名前はサトコさんと言って、性格も明るく、爽やかな女性だった。娘が2人いるという事もまた驚きで、僕らはそれを信じられなかった。彼女は見るからにいいところのお嬢さんで、その身なりや礼儀正しい仕草に育ちの良さが見て取れた。
 で、それだけでもすごいんだけど、彼女は実は元「スッチー」だったんです。JALかANAか忘れたけど国際線のスッチーで、機上で商社マンのご主人と出会い結婚に至ったという、まるでドラマの様な人生を送っていた様だった。昼はテニススクールにも通っていた。

美人+元スッチー+旦那は商社マン+昼にはテニス+たまには語学スクール

ってすごくない?バブル時代のトレンディードラマではなく、実際の世界でそんな生活を送っている人がいるんだあ、と当時の僕には眩しすぎた。その頃の僕は生活費と学費で苦しい生活を送っていて、彼女は同じ世界の人とは思えなかった。
 20歳そこそこの僕はアルバイト以外でそれまで同年代以外の人と接触があまりがなく、サトコさんの存在は
「世の中には色んな人がいるんだな」
と解らせてくれた。

次回も大阪シリーズ予定。

投稿者 yuki : 00:29 | 2005.07 | コメント (0) | トラックバック (0)

モトくんとトカレフ。

 僕が大阪で学生をしていたとき、小さなビデオ屋でバイトしていた。大阪はそのスジの人が多く、なかなかエキサイティングな職場だったけど、それなりに楽しかった。そこに僕の後輩として、モトくんというのが入ってきた。格好は普通なんだけど、少ししゃべってみると彼はとてもやんちゃな若者だった。当時の大阪は荒れていて、僕は都島区というは地区に住んでいた。東京でいうと、新宿から二つ目の駅。大阪の中心に住んでいたのだけど、朝方は暴走族がうるさかった。そんな都会でもまだ暴走族が我が物顔で走っていた。僕のアパートの大通り沿いを暴走族が爆音をならして走って、その後をパトカーがサイレンを鳴らして通り、最後は救急車のサイレン音が一つのセットだった。
 ある日、あまりのうるささに起きたら、僕のアパートの向かいのガストの駐車場で、警察とヤンキーの兄ちゃんが殴り合っていた。警官はそのヤンキーをボコボコにするのを見て、やっぱ警察は強いわ、と思ったのを覚えている。
 で、そのモトくんなんだけど、やっぱりヤンキーなので上下関係にはすごくうるさくて、先輩の僕にはとても気を使ってくれた。そんな事しなくてもいいよ、て言っても
「大丈夫っす!、雪さんは休んでてください」
なんてこっちが逆に気を使う事をよくやってくれていた。
彼はよく、
「雪さん、今一番怖いのは小学生ですよ〜。アイツら平気で人を刺すんですよ〜。俺らなんか可愛いもんですよ」
なんてきいてもいない事を良く教えてくれた。
ある時、給料日の前の日に、
「今度の給料、僕がんばったんで10万ぐらい入るんですよ〜」
と言ってきた
「へえ、すごいじゃん。何に使うの?」
「いや、アレですよ〜。今だったら10万なんですよね〜」
「何?」
「トカレフっすよ、トカレフ。今、評判悪いんで安いんですよ〜」
なんで評判悪いの?と思ったんだんだけど、もちろんそんな事はきけない俺であった。
「見ます?
「いや、いい。大丈夫」
と丁重にお断りさせて頂いた。

これ、本当の話。

投稿者 yuki : 00:56 | 2005.07 | コメント (0) | トラックバック (0)

本当にアツイ!

 いやー、それにしても最近あついね!俺が体調を崩すのも仕方ないよ、これ。ちなみにウチの会社の社長も風邪を引いている。僕らが引くと大抵、
「気合いの問題だよ」
と言っているのに。ま、どんな風邪でも一日で直してしまうのがウチの社長の恐ろしい所。
 僕が採用したバイトの中に、ひとり沖縄出身の人がいて、そいつも
「アツイですねえ」
ていうから、本当に熱いんだ、て気になってくる。そいつはちょっと変わったヤツで、
「こんなアツイ日はどこか遠い所に行って、悲しい目に会いたい」
とほざいていた。そいつはアメリカン・ニューシネマのファンで、ハッピー・エンディングを認めないヤツで、報われない未来や若い日々の大きな絶望を「格好いい」「オシャレ」と思っている。彼は中学生の頃に沖縄で石野卓球を聞いていたら
「ファミコンの音楽?」
と言われ、故郷との決別を切に願ったそうだ。
沖縄の夏はやっぱりもう少しカラッとしているそうだ。
 関東地方も梅雨明けしたし、これからが本番だね。暑さに負けず、走るぞ!

投稿者 yuki : 02:19 | 2005.07 | コメント (0) | トラックバック (0)

寝る、寝る、寝る。

 今日は一日寝て過ごす。これでもか、というぐらい寝たな、本当に。おかげで今は全然眠くないんだけどね。明日はSEVILLANASの大会があるんだが、人いそうだし、仕事だし、大事を取って休ませて頂きます。やっぱり土曜日には決戦を控えている身だしね。
 というわけで、一日家にいることなんて滅多にないから、普段出来ないことをやろうと思って、掃除や部屋の整理でもするかと思っていたけど、寝て、ちょっとゲームして、インターネットして、というやる気のない浪人生みたいな一日を過ごす。
 暇だから、そろそろ新しいオフィシャルグッズでも作るか、と思って次は長袖シャツか!と決めて候補を探す。上の写真とフォトアルバムを参照。真夏の今、長袖がお買い得なんだよねえ。
詳細
プラシャツ本体 2500
プリント      2000
ぐらい。

やっぱ5000円以内じゃないとねえ。

フォトアルバム

投稿者 yuki : 00:08 | 2005.07 | コメント (2) | トラックバック (0)

 お疲れ様です!

 いやー、今日は結構疲れたんじゃない?みんな。いてもたってもいられず、とりあえず顔だけでも出してくるか、と思って体育館に入ったときに、空気が違っていたからね。ムワっとしていて暑苦しかった。ベンチに入れればいいなと思って、それなりにの格好をしていたのが、逆にやりたくなってしまって、終わってからSEVILLANASの練習試合に参加。昨日で熱は下がっていたし、試合には出なくても、その場にいることで色々とためになる事もあるんじゃないかと思ってね。案の定ボールを見たら蹴りたくなったからねえ。とりあえず今日のゆっくり休んで、決戦にそなえます!。

投稿者 yuki : 02:01 | 2005.07 | コメント (0) | トラックバック (0)

風邪をひく。

 風邪をひいた。昨日の練習後、ノドが痛かったので声の出しすぎかなあ、と思っていたら身体がだるい。セキも少しあったので、こりゃやばいなとは思っていて早めに薬も飲んだが、本格的な風邪になってしまった。
 最近は涼しかったのでクーラーは使っていない、おそらく気候の激しい変化に身体がついて行けてないのだろう。年とったなあ・・・。明日の参加は微妙です。連絡します。行けなかったすんません、みなさん。早く寝ます。

投稿者 yuki : 20:30 | 2005.07 | コメント (0) | トラックバック (0)

疲れました。

 今日は毎月恒例、仕入れの日。しかし今日は練習日なので、できれば遅刻はしたくない!昼過ぎに時間に間に合わない事はわかったので、とりあえず掲示板に書き込んでおく。それでも希望は捨てない!
 そんなに難しい作業をしているわけではなくて、値段を交渉したりするだけなんだけど、これはやっぱり相手あっての事だから時間はかかる。ある会社と交渉して、電話を切ったら次の会社にかける。で、ここで値段が変わるからまた最初にかけた所に電話をかけ直す。これを4つの会社でやるんだから、なかなかまとまらない。いや、俺があきらめれば済む事なんだけど、一応責任がかかっているからね。
20:00過ぎになっても、なかなか仕事がまとまらない。ソワソワする俺。30分過ぎになって、あきらめる。とりあえず出来る所までやって、明日に丸投げ!おかげで明日は早めに行かないといけないのだ!ガンバルゾ!

投稿者 yuki : 01:46 | 2005.07 | コメント (0) | トラックバック (0)

宇宙の果て。

 スペースシャトルがいよいよ飛ぶそうである。以前の事故から計画が一時的にストップされ、その再開が待ちこがれていた。宇宙事業には計画が山積みになっていて、一つが遅れると膨大な量のスケジュールを組み直さないといけない。また、小さな国のGNPぐらいの金がかかっているので、人が死んだぐらいで計画をストップなんて出来ないんだよ!というのが本音だろう。
 「宇宙」にはもはやロマンや冒険の香りはもうない。「開拓」なんて考えはないし、科学的な可能性や進歩を期待して宇宙に飛び出す訳ではない。
 「宇宙を研究すれば、宇宙の歴史を知る事ができる。歴史を知れば、人間がどこから来て、そしてどこへ行くのかを知ることが出来る」
という大儀はあるけど、目的は産業と軍事だって事はもはや当たり前。僕の好きな漫画で、MOONLIGHT MILEという漫画があって、この漫画は宇宙開拓に置ける各国の競争を描いている本格的な漫画なんだけど、政治的な陰謀や人間の尊厳や宇宙に置ける生命の尊さを描いていたりして面白いんですよ。この漫画で、宇宙競争に勝ったアメリカがまず何をするかというと、国連にも秘密で宇宙ステーションに軍隊を置くんだよね。戦争はもはや宇宙レベルに拡大するって事なんだよね。
 実際の世界ではそう遠くない未来だろうとは思う。ただ、現在は宇宙への旅に関する安全性が問題になっている。100%の安全なんてないんだから、関係者は「これが精一杯」と思っているのだろう。ま、大航海時代には人なんていくらでも死んでるんだから、「危険は付き物である」と考えるのが普通だろう。ただ、戦争もそうだけど、やっぱ人間の命が一番安い、て事になるのかなあ。
 

投稿者 yuki : 00:24 | 2005.07 | コメント (0) | トラックバック (0)

本当に悲しんでくれる人が一人いればいい

朝から昨日の日記で書いた橋本真也選手のニュースを店で話す。プロレス大好きの部下がいて、僕に「橋本の葬儀行ってきていい?」ときいてくる。彼は大の格闘技好きで、橋本選手の訃報に大きなショックを受けていた。
 橋本は裏表がとても多いプロレス界では珍しく真が通った人間で、周りからとても好かれていたそうだ。テレビで見かけてもその人柄の良さはなんとなく伺えたので、そうだろうなと僕は素直に思った。争議には彼を慕う人間がたくさん駆けつけるだろう、と彼は言っていた。
 僕が社会人になった時に、会社から色んな研修に出してもらったのだけど、その中の一つに自己啓発っぽいものがあった。その時に、「自分が死んだ時に誰に葬儀に来て欲しいか」というお題について話し合った事があった。僕はそういう自己啓発的なものだ全然否定していて、なるべく耳を貸さないようにしていた。若かった僕は
「本当に悲しんでくれる人が一人いればいい」とか
「そっと忘れて欲しい」
とか言って格好つけていたけど、今回橋本選手に話しをきいて、本当は何が一番いいのかなあと思った。亡くなって尚自分を出張するのは何だか欲のかきすぎで、おこがましい気がするのだけどね。
 昔お世話になった年配の方が、
「葬式は死んだ人のためではなくて、残された人のためにやるんだよ。結婚式の反対だな」
とおっしゃっていた。なるほどなあ、と今思う。

投稿者 yuki : 01:51 | 2005.07 | コメント (5) | トラックバック (0)

破壊王、逝く・・・。

 今日、突然のニュースが舞い込んだ。破壊王事、プロレスラー橋本真也がなくなった。死因はハッキリしないが、脳内出血が有力とのこと。40歳だった。
 僕は一時期プロレスを見ていた時期があって、当時の橋本選手は大活躍だった。僕はグレート・ムタが好きだったんだよね。当時から、そして最近も橋本選手はキック・チョップ・垂直落下式DDTとずっと変わらないファイトスタイルだった。その技が発する衝撃と音から「プロレスラーは本当に強いんだ」と思わせる選手でもあった。40歳と言ったら全然若いよね、僕は特に応援していた訳じゃないし、ファイプロでもあまり選んだ事はないけど(どんな尺度だよ!)一抹の寂しさを感じます。
 僕らもいい年だから自分がお世話になった人や、知り合いの人がなくなったりする年代に入ってきた。近い人でなくても、テレビで見た人や自分が影響を受けた人の訃報を知るのはやはり考え深いものがあるし、やはりつらい。心構えなんて出来ないしね。これは子供の頃に誰かが亡くなった時とは全く違うモノで、生活の意味や生きることの難しさを知っている年になったからこそ、考える事もあるし痛感できるのだ。
 ご冥福をお祈り致します。

投稿者 yuki : 23:55 | 2005.07 | コメント (0) | トラックバック (0)

命の値段は。

 とあるペットショップの特売会の知らせが、昨日の新聞の広告チラシの中に入っていた。場所が八街だったので遠いなと思っていたけど、価格設定が試合が終わった後のパチモノユニみたいな値段だったので、買うつもりはないけどとりあえず見ておこうかなと思って行ってきた。3万円とか、5万円の犬をたくさん用意している事が一番の目玉の様だ。
 行ってみると本当に3万や5万の犬がたくさんいた。みんなフタ部分が透明になっている段ボールに入っており、上から見える仕組みになっている。犬は全部血統書付きで、見た目も元気だった。売り手はなかなかの商売上手で、しきりに客に抱っこをさせる。犬は可愛いし、抱っこしてみるとすぐになつくし、とどめに「ローンでも買えますよ〜」なんて言われると、価格が5万だしなあ、買ってもいいか!なんて気分にさせる。
 ま、いくら生き物でもやっぱり商品だし、結局は商売なんだよね。この価格の異常な低さは、この子達はみんな「余り物」って事になるのかなあ。って事はこの場所が「ラストチャンス」て事になろうだろうな、とか思っていたらちょっとブルーになってしまった。我が家でも犬を飼っているので何だか他人事には思えないのだが、俺には全部買う金なんてない!
 ペットショップに置ける「命の値段」はなかなか微妙な問題で、価格設定はいいとして、
「結局売れなかった犬はどうなるんだ?」
という倫理的に厳しい問題と背中合わせだ。商売だし、商品なんだからやっぱり最後は「処分」になるのだろう。ちょっと乱暴で冷たい感じがするけど、やっぱり仕方ないのかなあ、とも思う。

投稿者 yuki : 23:29 | 2005.07 | コメント (0) | トラックバック (0)

また会ったな!

 今日は幕張のアウトレットに行ってきた。そこに行くともはや惰性でNIKEショップに行くんだけど、今日は人も多くて嫌だなあと思っていたら、なにやらスペイン語で話している集団があった。それが完璧なアルゼンチンスペイン語で好奇心につられて近づいた。男達はみんな体格がよくて、おそろいのジャージを着ている。一番えらそうな年配の人が座ってシューズを試し履きしていて、スキンヘッドの人に「11号ないの?11号持ってきてよ」とお願いしていた。お願いされた男は体格のいい男で、どこかで見た事のあるヤツだなあと思っていたら、あのモネールだった。男達のジャージの背中にはBOCA JUNIORSと書いてあって、みんなBOCAのスタッフだった。BOCAのサプライヤーはNIKEだから、やっぱみんなNIKE買うんだ、なんて的はずれな事を考えていたら、みんな帰りそうな雰囲気だ。店の外にはBOCA集団が出来ていた、みんな若い子ばかりだったのでおそらくユースなのだろう。おそろいのジャージを着ている。こりゃ全員のサインもらうしかないべ!なんて考えたんだけど、ペンがない!というか、サインをしてもらうものがないじゃないか!必死で頭を働かして、そうだ!ADIDASにはきっとアルゼンチンのユニを売っているから買ってそれに書いてもらえばいいのか!BOCAとは関係なくもないし、書いてくれるっしょ!!!!!でも、アルゼンチンのユニはADIDASになっちゃうんだよねえ、いいのかなあ、なんて全くもって意味のない心配をする俺。しかし、みんな急いでるのか急ぎ足でどこかに全員向かっている。話聞いてると、すでに遅刻しているらしい。時間を気にしているのは日本の生活が長いモネールだけ!そうこうしているうちにサインをもらうどころか、話も出来ずに全員どこかに消えてしまった。これからは常にユニを持参していよう、と心に決めたのだった。

投稿者 yuki : 00:26 | 2005.07 | コメント (0) | トラックバック (0)

この世に合わない男

 今日は朝から店で工事に立ち会った。立ち会うだけで、僕は何もしなくていいのだから、色々な仕事をこなしたら暇になってしまった。エンジニアさんはパソコンと格闘をしていて、急がしそうだったので話しかけない方が良さそうだった。店の近くには高校があり、ちょうど学生達が登校の途中だった。
学生達を見ながら
「俺にもこんな時期があったなあ」
と思いに老けていたら、小学校時代の友人「C」の事を思い出した。クラスには必ず一人、ちょっと変わったヤツがいるものなんだが、このCぐらいに変な人にあった事は未だかってない。
 Cはドイツ系の家系で、金髪に近い茶髪と(どんな色だ!)のび太の様な分厚い眼鏡をかけていた。彼の家は裕福な家だった。送り向かえの車と派手な格好の母親を見れば誰もがそう思っただろう。また、彼の後ろには常に「裏口入学」という、おそらく本当であろうと思われる噂がついてまわった。その噂がなんで真実味を持っていたかというと、Cはとにかく「バカ」だったのである。明らかに入試をパス出来るレベルに達していなかったのだ。
 Cは勉強もダメ、スポーツもダメ、おまけに態度もダメ。殴られる回数は常にトップだった。彼には唯一得意なものがあって、それは「マイケル・ジャクソンの曲を暗記する」というものだった。当時の僕らにとってそれは尊敬に値する事だったので、仲間には恵まれていたと思う。性格は明るかったし、いじめもなかった。勉強は出来ないけど、記憶力だけは天才的だった。
 それでも奇行は目立った。校庭のアリを食う所をみんなに見せたがったり、意味もなく高い所から飛び降りたり、粘土に塩をまぶして食べたりしていた。授業中に鼻に鉛筆を突っ込んで鼻血を流して授業を中断させたこともあった。毎日がこんな調子じゃなく、時々こんな奇行をかますので、まあ、「ちょっと変なヤツ」て事になっていた。周りの僕らも当時は小学生だったので、まあ、世の中こういうヤツもいるんだな、ぐらいに思っていた。
 Cはとにかく誰にでも優しく、その優しさからみんなに好かれていた。その明るい性格はクラスのをまとめた事もあったし、僕は彼が好きだった。やることやること全部失敗していたけど、どんなに上手く行かなくても一生懸命に努力を続ける彼を見て、僕は人間としてのレベルの違いを(ガキのくせに)感じた。その一方でその努力はおそらくは報われないだろう、と言うこともウスウスと(またまたガキのくせに)気づいていた。
 ある日、事件が起こった。Cが体育の授業で使う野球バットで女子生徒をなぐって怪我を負わせた。故意だとか、偶然だとか、色々な話がでたが、結局Cはその日から学校に来なくなった。噂では夏休みの間に進級のテストを受けて結局ダメだったとか、来年は来るとか、いろんな話が流れた。しかしその後、彼が学校に来ることはなく、一回も合わないまま僕は卒業した。
 今思えば、本当に今思えばなんだけど、きっとCは何かの精神病だったのだろうと今、思う。Cが来なくなってから、不思議とクラスはまとまりをなくし、いつもと違う雰囲気が流れていた。Cと仲のいい僕らはなぜか殴られた女子生徒に対し納得行かない気持ちを抱いていたのが原因だろう。
 22歳か23歳の頃、当時のクラスメイトに会った。思い出話をしている、いつしかCの話になった。彼は高校生の頃にCに一度会った、という話だった。
町を歩いていると、前方から見た顔のヤツが人混みをかき分けてはしっててさ、良くみたらCだったんだよ。で、止めて話しかけてたら、Cが「おお、久しぶり。ごめん、俺今追われているんだ。また今度な」
と行って走り去ったらしい。
そいつはそのの後、Cが誰に追われてるのかを見極めようと少しまっていたが、それらしい人はいなかったようだ。
 もう15年Cとは会っていない。きっとこれからもあう事はないだろう。会ったら会ったらで多分気づかないし、向こうだって僕の事を憶えてくれてるかどうか怪しい。でも、どうもアイツが生きてる気がしない。彼がこの世にいない事が普通な様な気がしてならない。 きっとCはこの世界に合わない人なんだ。そう思う。

投稿者 yuki : 00:10 | 2005.07 | コメント (0) | トラックバック (0)

夜の仕事は大変だ。

 練習お疲れ様です。練習後、ダッシュで帰ったのは実は明日、と言ってももう4時間後ぐらいなんですけど、我が店のレジの工事があって、開店前までには終わらせないと行けないので、僕が立ち会う事になっているんです。365日営業だからさ、こういうとき困るんだよねえ。営業時間内には何も出来ないしね・・・。ま、僕はいいとして、こういうときに作業をしてくれるエンジニアさんは本当大変だよねえ。絶対昼と夜が逆転してるよねえ。今までも何回もこういう事をしてきてるんだけど、こういった夜中にシステムを直す仕事をしている人は暗い人が多いのね。僕が気をきかして話しかけてもあんまり話に乗ってくれないんだよね。向こうはさっさと終わらせて家にかえりてえよ!て思っているんだろうけど。
 最近は色んな商売が「24時間営業」を始めている。ライフスタイルが劇的に変わっていく現在、夜中の営業でも利益が出るそうだ。ドンキーみたいにね。が、僕の店だけは絶対にやりません!もしそういう動きになったら退社するよ〜、俺は。365日営業、24時間オープンなんて嫌だ!反対!

投稿者 yuki : 00:46 | 2005.07 | コメント (0) | トラックバック (0)

スパッツィオ

 スパッツィオという新興ブランド、みんな知っているかな。イタリアテイストを取り入れた日本発のブランドで、音楽とフットサルの融合を目指していて、最近アマスポでも買える。デザインがイマイチフットサルっぽくないところが逆に新しい感じで、それが吉とでるのか凶と出るのかがこれからの見所だ。
実はこのブランド、僕が取引のある会社が立ち上げたブランドなんです。僕の店を担当してくれていた人が関わっていて、今日店に来てくれたんだ。僕がフットサルをしているのを知っていて、なにかいいアドバイスないですか?という事で、なにやら俺では役不足な質問じゃないか!と思ったら一人前のフットサラーよろしくフットサルブランドにもの申す俺・・・。日本のフットサルブランドの現状を熱く語る俺、どうすれば儲かるのかを一緒に考えてアドバイスさせて頂いた。やっぱターゲットは俺らの年代だし、ネット販売は重要だし、できればキャップやリストバンドの小物も必要、そして子供女性ものも作った方がいいし、でもなんて言っても一番大事なのはデザインでしょう、ついでにいうと僕のチームのサプライヤーになってくれませんか?みたいな話を一丁前にさせていただいた。今はまだTシャツだけの展開だけど、これから先色々と作るらしい。楽しみだ。

投稿者 yuki : 00:47 | 2005.07 | コメント (2) | トラックバック (0)

練習・練習・練習。

 今日は雨の中、FGで練習が行われた。僕は仕事が21:00終わりだったので、15分遅れで到着。するとみんなが止まらずに走り続けるフィジカルメニューを行っていたのでなにやら責任を感じる始末。
 先日のぼろ負けをみんな引きずっているのかなあ、と思っていたけどそうでもなかった様で安心。いや、やっぱり少しはあったかな。救いだったのは沖縄帰りのイソッチが楽しい雰囲気を持ってきた事。そして当日いなかったイワの仕切があった事。最近は團長が休みの事が多く、疲れもあって雰囲気がだれそうな時にイワが苦言を入れてくれるので、ある程度のテンションが保てる。つーか、イワの苦言はありがたいよ。アイツはこれ読んでないから書くけどさ、試合に来れないのにあれだけのテンションを保てるのはイワぐらいだよ。アイツの気持ちを考えると、すごい苦しいと思うんだよね。苦しいというか、歯がゆいと言うか。逆にその悔しさを練習にぶつけているのかもしれないけどねえ。
 面と向かっては絶対に言わないけど、ありがたい存在だよ、アイツ。俺個人としても入団以来ずっと注意され、叱られ続けているし。以前は練習前にずっと個人参加でも一緒だったしねえ。ビールさえ飲まさなければいいヤツだし。て、そういう話じゃないか。
 とにかくもうちょっとの頑張りだ、もうちょっとだから頑張ろう。
 

投稿者 yuki : 01:25 | 2005.07 | コメント (2) | トラックバック (0)

長嶋茂雄ってなんだ!?

 長嶋茂雄ってすごいな、やっぱ。昨日からどのニュースチャンネルも長嶋茂雄の話題を取り上げていた。氏の回復ぶりがメインに伝えられ、なにやら全国民が笑顔になる瞬間であった。
 去年のプロ野球は合併問題で揺れ、チームの消滅、選手の待遇、ファンの権利、野球は商売なのか、色々な問題があった時こそ誰もが「長嶋さんがいてくれたら」と思っていたはずだ。
 長嶋茂雄の歴史は巨人軍の歴史であり、プロ野球の歴史でもある。その影響は計り知れない。
 でも良く考えたら、依存しすぎだよね。どんな偉大な人物であろうが、たった一人に支えられている「プロ野球」という存在はどう言ったものなのだろうか。
 誰も言わないけど、長嶋さんがなくなったらどうなるんだ?一茂がそのポストを次ぐわけには行かないしさ。とんでもない騒ぎになるだろうし、こりゃカレンダーに新しい休日ができるんじゃないか?

投稿者 yuki : 01:09 | 2005.07 | コメント (0) | トラックバック (0)

 やっぱ、俺らは強くないんだよ!

 今日は市原までプチ遠征をして、大会に参加。結果は最低だったが、最後の試合のみに希望みたいなものは見えた。
 朝から僕を含み、みんなのモチベーションは低かった。一試合目はアップなしで挑んで、良くないコンディションのなかで敗戦。2試合めは原因がなんなのかも解らないような負け方。最後のSnr戦には心を入れ替え、やっと本来の姿みたいなモノは見えけど一点差負け。
 問題はやはり精神的なもの、モチベーションの低さ。それは僕個人も感じたもので、その原因はわからない。疲れているから?相手をなめていた?ちょっと天狗になっていた?朝が早かったから?
自分ではどれでもないとは思っているけど、きっと全部当てはまるのだろう。強いチームにはいい勝負をするのに、そうでもないチームには合わせてしまう僕らの良くない癖だけど、流石に今日真剣にこれについて考えさせられた。
 でもねえ、チンチンにされて逆に良かったとも思う。正直な話。このままモンテローザ戦に向かっていたらちょっとやばかったよね。
今一度ね、再確認しようよ。
俺らはパスが下手なんだ。ドリだって抜けない。トラップもさまにならない。シュートも枠には行かない。
つまり、
個人としてはなく、チームとして、俺らは強くないんだ
勘違いしないで欲しいのは、それは俺らが弱いって事ではないって事。事実、市リーグではそこそこの成績を残している。でも、思い出して!、それを支えているのは
日々の練習で培った走りと、最後まであきらめないモチじゃない?決して技術とか戦術じゃないよね。
 偉そうに言っている僕も、今日はダメだったのは解っている。楽しめなかったし。一番の問題は、その原因が分からないってことだけどさ。でもね、いつも思うのは、俺らは強くはないけど、弱くはない。そして、俺は一人じゃない。みんながいる。だからこそ走ろうと思うし、体を張ろうと思う。今日のSnr戦の様に。気持ちを入れ替えて頑張ろう、走ろう。つーか、頑張るよ俺!

投稿者 yuki : 23:30 | 2005.07 | コメント (0) | トラックバック (0)

昨日のお話。

 というわけで、僕は昨日書いた話しがとても気に入っているのですよ。花井寛一は謎の多い人物で、時代も時代だから情報は皆無に等しい。そうなると想像が膨らむ訳なんだけど、国交なんて無い当時の時代なんだし、交通機関なんてないに等しい時代に地球の裏側まで放浪し、そこに住み着くんだからすごい勇気というか、バイタリティがあったと思うんだよね。
 BOCAの過去の写真を色々みていると、1920、30年代のチーム写真に花井が映っている事が多い。アルゼンチンは移民で出来上がった国なのだが、外国人に対する差別が激しい国でもある。(黒人がいないのもそのせいだ)その国の中で認められ、愛され、さらにチーム写真に一緒に入っているんだから、どれほどの人物かが伺える。一番のポイントはやっぱりその功績だよね。アルゼンチンサッカーの基盤作りに参加したどころか、その進展をより加速させた訳だからね。
 まるでちょっとした偉人伝になっているけど、この話しはそんなに脚色されているではなく、人間味溢れている所が大好きだ。それは一人の男が国籍、文化、価値観を飛び越え、一人の人間として認められたという事、そしてそれを認める文化的な土壌がアルゼンチンにあったという事、この二つの点が一番気に入っている。それをつなげたのは1930年代のサッカーというわけで、スポーツとしての素晴らしさも伺える。
 「国際化」なんって言葉も無かった時代に、他国の文化や人間と完璧に交流を成し遂げた花井寛一。亡くなる間際に祖国を思ったのだろうか。日本人としてのメンタリティは完全にはなくなりはしないから、遠く離れた家族や故郷を少しは思ったのだろう。故郷に帰らずに終わる人生を後悔と共に振り返りはしなかったのだろうか。と、僕はいらない心配をしてしまう。少なからず彼の功績はサッカーと共にいつしか祖国に帰って、ボールを蹴る全ての人たちがその恩恵を受けている。その中には僕らも含まれていると僕は信じたい。

投稿者 yuki : 16:35 | 2005.05 | コメント (0) | トラックバック (0)

今日は長いぞ。

 現在、多くの日本人が海外に旅立ち頼もしい姿を見せてくれている。でも、彼らより遙かに早く海外にその可能性を求めた日本人がいた。彼はサッカーが国際的なスポーツになる前に、アルゼンチンの名門、ボカ・ジュニアーズのプレイヤーたちの信頼を集める日本人トレーナーだった。彼の名は花井貫一。アルゼンチンを愛し、愛された初めての日本人。

 花井貫一は1885年(明治18年)に生まれた。医師の家系だったようで、10人兄弟のうち、3人は医者となった。貫一自身も4年間にわたって解剖学を学び、医師を目指していた。しかし、日露戦争に従軍していた父の死が、彼の夢を断ち切る。1904年、貫一の父は死に、貫一は医師への道を捨てざるをえなかった。「どうせなら」と彼は生き方を変えたみようと思った。
 貨物船に乗り込んだ貫一がたどり着いた先がヨーロッパであった。柔術の経験をいかし、あちこちで大道芸人の様に格闘技を教え回っていた様だ。柔術を教えながら、骨折や関節を痛めた人々の治療もした。学んだ解剖学で人体にの構造に精通し、柔術にも取り組んでいた事で、「ほねつぎ」のような治療をしていた様だ。この時に診たたくさんの患者がトレーナー寛一を育てていったのだろう。
 20代の半ばにさしかかった頃、寛一はまた旅にでる。彼は大西洋航路を横断する客船の体育教師になり、イタリアのジェノヴァから「南米のパリ」と呼ばれたアルゼンチンの首都、ブエノス・アイレスに着いた。入港する前に荷物をまとめ、上司に「お世話になりました」と一言だけつげ、寛一は「運命」の地となるアルゼンチンの大地を踏みしめた。だが、すぐにの「運命の地」と出逢えるわけではなかった。
 仕事を求め、放浪を続けていた寛一が始めて定職を得たのはウルグアイだった。アルゼンチンと接するパイサンドゥという街の警察の柔術教師になったのだ。また、いくつかの学校の柔術のクラスを受け持つ様になる。
 30歳を過ぎた頃のことであった。コンセプシオンという街で寛一は美しいアルゼンチン女性と出会い、結婚する。イタリア系の美女は遠い極東の国からやってきたバイタリティーあふれる男の強引さに次第に負け、結婚を承諾する。それでも寛一は放浪を続けた。アルゼンチン、ウルグアイ、そしてパラグアイでも柔術を教え、1920年代、30年代半ばにして、ようやくブエノス・アイレスに落ち着く事になる。
 花井寛一が生きた時代
 ヨーロッパが第1次世界大戦の後遺症から立ち上がれないでいた1910年代、南米のサッカーは大きな発展を遂げようとしていた。1916年には世界で初めてのサッカー連盟であるCONMEBOL(南米サッカー連盟)が設立された。当時はウルグアイとアルゼンチンが南米サッカーの中心だった。 大西洋をわたるのに数週間かかったこの時代、ヨーロッパと南米のサッカーは交流はほとんどなく、19世紀の末から20世紀はじめに、イギリス人によって持たされたサッカーはイギリスの影響を抜けて独自の発展を遂げ始めていた。その中から生まれたのは現在の南米スタイル、高い個人技を活かしたサッカーだった。
 1924年のパリ・オリンピックでウルグアイが強烈な個人技をを披露し、優勝を飾った。1925年にはボカ・ジュニアーズは欧州遠征を敢行して、15勝3敗の驚異的な成績を残して帰国した。1930年には記念すべき第1回ワールドカップがウルグアイで開催され、ウルグアイとアルゼンチンが決勝を戦い、31年にはアルゼンチン、33年にはフラジル、ウルグアイと次々にプロ化が遂げられていった。ヨーロッパは未だ不況にあえいでいる1930年代、南米サッカーは世界ともわたりあえるサッカーへと変貌していた。盛んになり、人気も出てくれば、選手たちの気合いの入れ方もちがってくる。試合も激しくなり、負傷者もでてくる。そうした時代に運動科学を持ち込み、競技能力を飛躍的にレベルアップさせたのが、寛一であった。
 寛一とボカとの出会い
 当時のアルゼンチンサッカーはまだアマチュアだったが、サッカー熱はいよいよ盛り上がっていた。サッカー連盟も誕生し、アルゼンチン代表も結成され、コパ・アメリカで毎年ウルグアイと死闘を繰り返し、権を争っていた。国を代表するチームの活躍で、国中のスタジアムは満員だった。
 寛一が始めたサッカーを見たのはこんな時代だった。
 応援につれて行かれた寛一の目の前で、1人の選手がけがをする。役員の1人が付き添って「大丈夫か?」と聞くが、選手は顔をゆがめているだけだ。信じられない事だが、当時のサッカーでは選手交代はできなかった。役員は選手にとりあえず水をかけたりして、ピッチに送り出そうとしていた。寛一にはそれは無理だと思えた。彼は観客席から出ていって、その役員に言った。「これはひどい。プレーするのはもう無理ですよ」。その役員は立ち上がってこう言った「じゃあ、君がついていてくれ。そういってベンチに戻っていった。次の試合から花井は「トレーナー」としてベンチに座る事となった。
 寛一は今までの経験を活かした。小さな怪我ならテーピングでプレイを続けさせる事ができた。そしてなによりも、試合後のマッサージが効果的だった。選手たちは試合後、寛一のマッサージを受け、疲れ果てていた体が生まれ変わる様に感じた。よく動けるし、試合の疲労からの回復も早い。彼らにはそれは「マジック」に思えた。「スポーツ医学」なんて言葉がなかった時代に寛一は持ち前の知識と経験で信頼を得ていった。程なく寛一の評判はブエノス・アイレス中に広まった。当時の人々にとって、「怪我を直す日本人」は神秘的な意味合いをも含んでいた事だろう。
 ある日、寛一に予想しなかったニュースが訪れる。アルゼンチン代表のマッサージ師になってくれとのアルゼンチンサッカー協会からの要請であった。当時のサッカー協会は最大クラブ、ボカ・ジュニアーズの関係者が大半をしめたいた。こうして、寛一はボカのトレーナーとなった。
 カンイチなしでは試合はできない
 貫一の価値を認め、もっとも信頼したのは選手たちであった。彼らはユニフォームや優勝メダルを貫一にプレゼントするようになった。監督でもない、コーチでもない、ましてクラブの会長でもない、ただのマッサージ師でトレーナーの貫一に選手たちは感謝の気持ちを抱いた。1925年にはボカが欧州遠征を行った時、ビザの問題で一緒に貫一がこれない事を知った選手たちは中止を求めた程だった。
  「ドック・スッド」という街に貫一の診療所があった。そこにはありとあらゆる人々がつめかけていた。色んなクラブのサッカー選手だけではなく、海外から貫一の評判を聞きつけた者、当時アルゼンチンで有名だったヤクザもいた。貫一は分け隔たりなく治療した。貧しい人から治療費をもらわない事も多かった。でも、彼を成功に導いたのはボカでの伝説的な治療の数々だろう。
 ある時、ボカの選手、ビセンテ・カセレスが試合中に足の指を骨折する怪我を負った。チームイメイトたちはとてもプレイできる状態ではないと思った。だが貫一はバッグから一本のテープを取り出し、それをカセレスの足に巻いていった。カセレスは試合の最後まで走り回り、さらにその後の回復が驚く程早かったという。「プロ化」の波が押し寄せ、大きな発展期にあった南米サッカーを陰で支えたのがトレーナーであり、その先駆者こそ花井貫一であった。 
 バラージョと貫一
 フランシスコ・バラージョ。第1回ワールドカップに出場した20歳の若者は、ヒムナシアからボカに移籍した。アルゼンチンサッカーで初めての金銭トレードだった。ボカでもすぐにエースになり、33年には34ゴールを稼ぎ、得点王となった。まさに、当時を代表するスター選手である。
 1939年のある日、バラージョは久しぶりに貫一を訪ねる事にした。彼は数年前に膝の故障で引退をしていた。引退前後、バラージョは貫一にたいして、気まずい想いを抱えていた。痛めた膝をずっと貫一に任していたのだが、新たな怪我をしたとき、「絶対に手術してはならない」という貫一のアドバイスを聞き入れず、クラブのドクターの命令に従い、手術を受けてしまった。クラブのドクターの中には選手たちが慕う貫一に嫉妬を抱く者も少なかった。関節、じん帯や筋肉についての治療の経験や知識が不足しているにも関わらず、「医者である」という事が当時はとても強かった。
 結局、バラージョはその手術が原因で20代にして引退した。その後も貫一を訪ねたが、貫一は何事もなかった様に接してくれた。
「あの時手術しなければ、後何年プレイできただろうか」
バラージョはそう思いながらハンドルを握った。
 晩年の貫一  
 久しぶりにドック・スッドの診療所についたバラージョは、ずいぶん雰囲気がちがう事に気づいた。入り口にたくさんの人々が並んでいたのだ。そっと裏に回り、貫一の自宅に入った。玄関にはボカ時代のバラージョの写真が飾られていた。
 寝室に通されると、ずいぶんよわよわしくなった貫一がベッドにいた。驚きを隠せないバラージョに貫一は手を握り、言った。
「バラージョ、俺はもう死ぬ。もうい死ぬんだよ。お前と、チェロと、ラサッティ、ベニチェリ、ルゲリートと
もう1人で俺の棺桶を担いでくれ」
バラージョは
「カンイチ、そんな事いうなよ」
というのが精一杯だった。
 30年代の後半、ボカは「夢のスタジアム」建設に動き出した。31年のプロ化以来、スタジアムはどこも満員だった。25年のヨーロッパ遠征で、ヨーロッパのチームに圧勝したボカは「世界1」の自負をもっていたが、そのチームに見合うスタジアムをもってこそ、名実ともに「世界1のクラブ」となるのだ。 貫一もこの計画に大きな思いを抱いていた。日本から飛びたち、世界を放浪したどり着いた安住の地、ブエノス・アイレス。そしてボカ。その愛する「我がクラブ」が「世界1」と呼ばれるようになるといいう話を聞いたとき、なにが彼の脳裏をよぎっただろう。
 1940年5月25日、6万人を収容できる「ボンボネーラ」は満員の観衆を集め、オープンした。ヨーロッパでは戦火のまっただ中にあり、貫一の祖国日本は中国に進軍し、戦乱の時代を迎えようとしていた。この「夢のスタジアム」を見ることなく、花井健一は多くの友人に囲まれながらブエノス・アイレスで生涯を終えた。54歳だった。
 貫一が残したもの
 貫一が生きた時代から50年以上たった今、日本のサッカーはプロ化の時代を迎え、かって貫一が渡り歩いた南米の国々の助けを借り、急速にレベルアップを果たしてきた。さらにはワールドカップを開催するまでに至った。アルゼンチンは世界の強豪になり、キラ星の様な選手を次々と生み出した。
この未来を貫一は想像できただろうか。
 「スポーツ・トレーナー」の草分けとして南米サッカーをレベルアップさせた男、花井貫一。彼の努力はいつしか彼の故郷、日本にもたどり着き、現代を生きる全てのサッカーを愛する人々は彼の恩恵を少なからず受けていることになる。
 花井貫一。この名前を覚えよう。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 このエッセイ「El JAPONES DE BOCA」は双葉社発行、サッカー批評11月号に大住良之氏がお書きになった「花井貫一という男がいた −アルゼンチンサッカーを飛躍させた日本人−」を元にして書いた。僕は花井貫一の人生は未だ謎の部分が多い。彼の情報は皆無に等しく、僕の様な一般人が手に入れる事のできる情報はもっと少ない。
 おそらくこの話を知っているアルゼンチン人もいないだろう。当時も証言を聞ける事も期待できない。 ボカ・イレブンは貫一に、試合前の集合写真に一緒に入るよう頼んだそうだ。 上の写真の様に。また、貫一が着ている服の左胸に、ボカの紋章が入っている写真もあります。これは肌の色や目の色、人種を越え、貫一は愛され、認められ、尊敬された事を意味します。

投稿者 yuki : 23:32 | 2005.07 | コメント (0) | トラックバック (0)
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