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存在の価値

 失って初めてその価値を知る、というのは本当に本当の事。病気になっては健康の大事さを知り、別れては好きだった女性の事を思う、失っては友のありがたさ、家族の素晴らしさを感じる。そして、えてして多いのは後に残るのは少しの後悔。

「もっとやさしくすれば良かった」


「もっと大事にすれば良かった」


「もっと気持ちを伝えれば良かった」


そんな想いを抱えながらこれからの日々を生きるのか、と思うと苦しくなる。

 実は昨日、僕の彼女が飼っていた犬が死んだ。たかが犬、と誰もが思うだろう。僕もそう思っていた。が、いざ今まで当たり前の様に動いていたものが動かなくなり、なんの反応をしめさない姿を見たら、胸に穴が開いた。生と死のボーダーラインがどこなのか僕は知らない。姿は生けている時のままなのだが、確実に死んでいる。魂が抜けたとか、心臓が止まったとか表現は色々あるだろう、全く同じ姿なんだけど、絶対的に確実にちがうんだよね。
 ちょっと個人的な事になっちゃうからあまり詳しくは書かないけど、昨日は普段とらない行動を僕はとり、また普段とちがう事が多く起こり、その犬に死ぬ前に会えたんだ。それがなんかの虫の知らせとか予兆だとは思わないけど、逆に良かったかなあと思っている。
 実は僕が発見したんです。見れば死んでいる事は理解したんだけど、やっぱり何度も名前を読んだりした。映画みたいに心臓の音を聞こうとした。そして目を閉じてあげた。
 その犬は13年生き、僕が知っているのは4年。短いのか長いのか解らないけど、存在感を感じるのには十分だったみたいでかなり胸に来た。その存在は世の中では些細な事だけど、世の中ってその些細な存在でなりたっている。
 ま、こういうときに思うのはどう死んだかではなく、どう生きたか。そしてこれからどうするのか。良かった事もそうでない事も、後悔も、思い出はたくさんあるだろう。感じた幸せも今ある純粋な悲しみも飼い主が背負うべき責任なのだろう。
 

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