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いじめ

 僕の好きな映画に「夏時間の大人たち」というのがあって、こんなシーンがある。主人公のタカシは夏休みが暇で暇でしかたない。することがないから毎日窓の外を見ている。そこを女子高生の集団が通りかかる。集団は立ち止まり、一人の女子高生を倒し、蹴り始める(伊藤歩!)。しばらくすると集団は去り、泣きじゃくる伊藤歩だけが映る。
 夏休みが終わる頃にまたタカシは窓の外を眺める。するとまた女子高生の集団が、今度はちがう女子高生をイジメ始める。よく見ると前回ボコられていた伊藤歩がイジメる側に回っている・・・。
 僕の中での考えが定まらず、避けてきたテーマがいじめである。被害者が悪いのか、加害者が悪いのか、どっちも悪くてどっちも悪くないのか、全くもって全然分かりません。加害者もある視点からでは被害者と同じだし、そして被害者が完全に悪くないのかと言われたら、そうとも思えない。社会が悪いのか、世の中が悪いのか、大人が悪いのか・・・。
 僕が育ったアルゼンチンやアメリカ等の国では私立学校が極端に少ない。なので、頭の良い奴もバカも、金持ちの奴も貧乏人も同じ学校に通う事になる。格差がそこまで顕著ではない日本との学校システムの一番の違いがここにある。親に買ってもらったスポーツ車とバス通学する生徒の間には絶対に相容れない大きな溝があり、学校内のヒエラルキーは自動的に簡単に決まっていく。生まれながらにして大きな差があり、生活の中で常にその差を感じながら生きていく事はきっと簡単な事はない。これは良いことかどうか分からないけど、事実コロンバイン高校乱射事件などが起こっている。
 アメリカでは金持ちが貧乏を虐め、運動部の奴がひ弱な奴を虐める。それはカースト制度かのように当たり前に行われている。日本では格差が少ないので、虐めはよりどうでもいい細部にまで伸びる。虐める側は自分とは違う所を探しだし、そこを突いて虐める。些細な事で虐める。虐めの陰湿さはそこから来る。
 いじめにあった生徒が自殺すると世論は犯人を捜し、裁こうとする。加害者が自殺すると今度は責任は学校に向けられる。責任の所在をどこかに、というのが最近の風潮でとても不自然に思う。なぜなら、本当に一番危ないイジメは、無意識のうちに行っているイジメだと思うからだ。確信的なイジメは十分悪だけど、この問題の根底にあるのは無意識に行ってしまうイジメ、だと思うんだ。誰の中にもその種はあるし、それこそが人間性の影の部分なんだよね。
 ま、なんだかんだ言ってもわからないけど・・・。

 

posted by @6 : 15:26

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