2009年3月 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31  

格好いい親父ども

 石田純一はとうに50を過ぎているらしい。若く見えるのはいい事だと思うが、あそこまで若くありたい、若く見せたい、という精神にはある種の悲しみが見え隠れしてならない。50歳というのは僕にとっては今はまだ未知の領域ではあるが、運が良かったらイツカたどり着く年齢である。
 さて、僕の周りのオヤジどもと言えば、16のやつと、セビのD、そして親父道に片足突っ込んでいるDである。彼らは恐らくベビーブーマーで団塊世代の最後の方であろう親を持ち、受験戦争等の競争の高い時代を生きた世代である。面白い事にこの3人は全くタイプに違う人間であり、3人とも人間的に魅力的である。
 格好良く年を取るのはきっと難しい事なのだと思う。若作りは寂しいし、かといって実年齢以上に老け込むのも良くない。「子供の心を持った大人」なんて言うけど、年齢相応の常識や知識がないと恥を書く。爺でもない、若者でもない、その間に位置する「オヤジ」は中途半端でありながら、実は人生の中で一番美味しい時期なんじゃないか?と最近思えてきた。

 城選手が引退する。僕の一つ上だから、あまりにも早い引退だと思う。もはや靭帯がない状態だと言われる膝が限界なのだろうか。悲しい限りである。
 僕の世代の人間は、城選手とともに日本フットボール界を見てきた。僕が高校生の時にJEF市原に彗星のように現れ、試合があるごとにスポーツ新聞千葉版の一面を飾っていた城選手はバブルを過ぎたJリーグの救世主でもあった。
 思い出すのは、フランス大会予選、アジア第3枠を争った対イラン戦。1-2とリードされていたが、中田のクロスを城がヘッドで入れた。城は当時絶対的なエースだったカズとの交代でピッチに入っていた。思えばあの試合は日本フットボールの転換期だった。中田が完全にチームの主導権を握り、カズと交代で入った城がゴールを決めた。世代交代が示されただった。
 その試合の大好きなシーンがある。延長も残り5分。日本は幾度となく決定機を迎えるが、ことごとく外す。城は直前にイランキーパーと衝突し、脳しんとうを起こして意識朦朧としていた。後に本人はぶつかってからの記憶がないと語っている。フラついている城に歩み寄った中田は、城の頭を両手でしっかり押さえ、額と額をくっつける。カメラはアップになり、何かをつぶやく中田と小さくうなずく城の顔が映る。当時それを見た僕は、彼らが僕と同じ人間であり、若者であり、決して別世界の人間ではないのだと思った。苦しがっているんだ、必死で戦っているんだ、と思った。城は22歳、中田は20歳だった。彼らの肩に日本代表を背負う責任が生まれ、世代交代交ののろしが上がった。
 そう思うと、城の引退をカズが見送る事になるとは皮肉な運命である。新しい世代であったハズの城が選手生活を終え、古い世代のハズのカズが現役を続ける・・・。横浜FCでくすぶっている城に発破をかけたのはカズだったし、サッカー選手として、人間として多くの事を城は学んだ事だろう。
 城は「決めてくれるFW」というより、「外す」イメージの方が強い。とにかくハズせるシュートは全部ハズしたんじゃないかな。が、それでも何かを期待させる予感はあったんだよね、常に。

permalink | - | - | posted by @6

成人、成年

 20代中盤の女性スタッフから、
「最近の中学生はすごいです。少し前に来たお客さんなんですけど、どうみても20前半の女性かと思ったんですけど、中学生でした」
という話をこの前してくれた。その女子中学生はお洒落な上大人びていて、なんていうか、体はもう大人で、彼女が纏っていた雰囲気も決して子供くさいものではなく、大人の女性のそれだったらしい。
 たしかに最近の中学生でも体が大きく、子供に見えない。着ているものも僕の時代なんかよりも全然洗練されている。見かけは普通の若者で、中学生に見えない。僕の時代より大人になるのが早くなっているのか?と思ってしまう。
 それと間逆に、精神的に大人になることが遅くなっていると感じる。毎年荒れる成人式が示すように、いくつになってもガキのままの若者が多い。大人と子供のハッキリした定義は時代によってまったくちがう。平均寿命が30〜35だった時代では男は15で成人、結婚し戦争にでた。現在では法的に20歳というラインがある。これがいいのか悪いのか・・・。
 原始時代では、成人のラインを
「集団に貢献できるかどうか」
で計っていたという。男は狩りに参加できるかどうかだった。10歳で成人できる人もいれば、いつまでたっても成人できないものもいた。つまり、全くの能力主義だったんだよね。当時の大人の意味は「一人前」という意味で、本来はそれが正しいのだろう。
 何をもって大人なのか。何を持って子供なのか。若さって何なのか?なんで若さが憧れの対象なのか・・・。ま、人間も動物、生物である。生物には身体的な熟成があるので、体だけは誰でも「一人前」になる事ができる。精神的、肉体的に一番いいバランスは何だろうか。

グレタ・ガルボ

 伝説になっているハリウッド女優の一人にグレタ・ガルボという女性がいた。彼女は絶世の美女で、自分でもそう理解していた。。ハリウッド女優たちの誰もが自分が一番だと思っているので、ここまでは良くある話である。面白いのはここから。
 実はグレタ・ガルボは36歳の時に引退している。マスコミを徹底的に避け、マンハッタンで暮らしていた。1954年にアカデミー賞栄誉賞を授与するが授賞式には出席せず、85歳で亡くなるまで一度も公の場に姿を現さなかった。グレタ・ガルボは女優として昨日書いた「夭折」をそのまま体現しながら、人間としては85歳まで生きたのだ。絶対に老いた自分を見せなかった執念は僕らには理解できないほど強いものだったのだろう。
 「スクリーン上での自分の美しいイメージを永遠に残すために映画化界からの引退」
なんという覚悟だろうか。その後の彼女の私生活はベールに包まれ、そのため彼女の神秘的なイメージは崩れる事はなかった。
 日本文学の研究者、ドナルドキーンが友人宅でガルボに合う機会に恵まれた事を新聞に書いている。往年の美しさが影を潜め、口紅がはみ出して塗られていた、と書いている。ガルボは容姿が衰えた自分の姿を見たくなく、鏡を遠ざけていたのだ・・・。ここまで来るとプライドが高いとか、ナルシズムの極地とか、女性の美に対する執着なんて簡単なものじゃないんだよね。

夭折願望

 夭折というのは、若くして亡くなることを言う。年齢の基準があるわけじゃないので、何歳以下を夭折と呼ぶのかはわからない。そしてこの夭折には自殺が含まれるかどうか、議論になるところである。
 とにかく夭折というのは、未来あるハズの誰かが亡くなっているわけなので、限りなく不幸なことである。不幸な事ではあるんだけど、その響きには「儚い」感じがある。そう、夭折するなんて卑怯なのである、ずるいのである。
 若くして亡くなった人の思い出はいつまでも若いイメージのままなのである。生きているこっち側は醜く老いていくなか、先立った側はいつまでも美しいままなんだよね。ジェームズ・ディーンがいつまでも格好よさの象徴であって、モンローがセクシーさの基準であって、カート・コバーンがいつまでも輝いて見えるのは、彼らの年老いた姿を誰もが見た事がないからなのである。特に日常の生活と限りなく遠い姿を見せてきたスターたちの年老いた姿には大きな寂しさが付きまとう。こっち側も夢をみせてくれたアイドルの年老いた姿を見るのは寂しい。夢はいつまでも続かない、あのスターと同じように生きている僕らは例外なく年を取っていうのである、と悟る瞬間である。
 とはいえ、どんなにボロボロの雑巾の様な人生でも生きている事には確かな価値がある。老いていく事は角度を変えればとても特別な事で、幸福と呼べるのかも知れない。格好良く年をとる人もいるしね。

フットサルの輪

 僕の店のバイト君たちがフットサルをしたいというので、今日は朝からFGのCピッチをレンタル。僕の会社ではもう1店舗あって、そっちのスタッフも交えて蹴る事に。みんな楽しみにしている中、天気にも恵まれてスポーツの素晴らしさを再確認した。
 同じ会社とは言っても全く交流はなく、全員が初対面であった。最初こそよそよそしかったが、少しずつ溶け始め、後半はゴールが決まるたびにハイタッチをするぐらいの交流になった。不思議なものでフットサルをしている笑顔が多く、ミスを笑い好プレイに拍手をしてしまう。スポーツには上手い下手の価値観を越えた何かがあって、それが多くの人の心を捉えているんだよね。考えれば僕のフットサルはそこから始まった。20歳前後の若者たちが夢中で蹴っている姿を見ながらそんな事を考えました。

まとめ

 そろそろ陰謀論が飽きてきたので、まとめ。
 陰謀論はどんな時代にも存在する。社会という形態ができ、人々の間に優劣、上下関係ができてから存在している。それは権力者には決してなれない一般人のガス抜きのために存在している。陰謀というのは人々が抱く疑問や不満に対するとても良く効く「いいわけ」である。自分がいくら頑張って、どんなに努力をしようとも金持ちになれない、権力者になれない、生活に満足できない、世界が平和にならない、それらの理由は大きな組織が全てを決め動かしているからで、自分がいくら努力しようとその組織に勝つ事はできない。よって、現状に満足できないのは自分が悪いからという事もあるだろうけど、一番の根元は
「良く解らないけど、大きな組織がこの世を回していて、自分ではどうすることも出来ない」
という事になる。ここが誰もが興味を持つ一番の要因だよね〜。
 

フリーメーソン

 そして陰謀と言えば、フリーメーソンである。陰謀=フリーメーソンというのはセットになっていて、世界のあらゆる選択はフリーメーソンの酌量で決まる。アメリカ歴代大統領は何人も会員だったし、一ドル札に書いてある目を持つピラミッドはフリーメーソンのシンボルである。面白い所ではケンタッキー・チキンのカーネルさんも会員で、店舗の前に必ず置いてある像の胸にはフリーメーソンのバッチが輝いている。自由の女神像はフランスがアメリカ建国を祝して送られたものだが、それを送ったのはフランスのフリーメーソンである。
 フリーメーソンはとても保守的な団体で、上に書いたものは本当かどうか解らない。なぜなら、情報が少ないからである。その起源や入会条件、活動に関してはある程度の情報があるものの、確固たる証拠がないのが事実。保守的な体質と、批判や噂に対し徹底的な沈黙で答える所にも原因があるだろう。
が、時代とともに現在では情報公開が進み、その全貌が解るようになっている。そしてなんと、公式ウェブサイトもあるし、電話帳にも番号が乗っている。

 フリーメーソンの一番面白い所は、会員の宗教を問わない所にある。どの宗教でもいいのだが、無神論者は入会できない。現在では普通の事かも知れないけど、1300年から存在する団体に宗教を越える価値観があった事はとても特別な事である。が、「異教徒は全部敵」という価値観を持つ人からは悪魔の団体になってしまう。これもフリーメーソンが嫌われる大きな原因の一つだろう。
 フリーメーソンを語るのなら、どんなに時間があっても足りない。少なくとも、語られるような悪魔の団体ではなさそうだ。

太平洋戦争の始まり

 アメリカ参戦の理由となった真珠湾攻撃にも陰謀論がある。アメリカは事前に情報を手に入れていたが、参戦したいがための大義を獲得するために情報を黙殺していたという説。事実、当時の日本の暗号文はことごとくバレていたし、事前の外交交渉も決裂することはほぼ決定事項だった。日本は交渉をしながらも、開戦の準備をしていたのだが、それはアメリカだって同じ。
 とは言え、当時のアメリカ人は日本人をとても低く評価していた、冗談抜きで
「日本人に戦闘機を操縦するような難しいことはで出来ないし、そういう発想すら出来ない」
と決め付けていた。また、日本と真珠湾は離れていて、攻めた来たとしてもそこまでのダメージはないだろう、と思っていたのだ。当時の日本軍は朝鮮で経験を積んだ猛者ぞろいだった上、盲目なまでの忠誠心があって、ハッキリ言って強かったのだ。作戦は外務省にも知らされることなく極秘裏に進められた。
 結果は知っての通りで、アメリカは高い代償を払うことになった。皮肉にも日本軍に喰らった奇襲攻撃がその後アメリカの十八番になっていくんだよね〜。

アポロは月に行っていない

 1969年7月20日、人類が月に初めての足跡を刻んだ。テレビの前に釘付けになった多くの人は科学の無限の可能性と、アメリカという大国の威厳に魅せられた。
 が、どの世界にも天の邪鬼な人がいて、「実はアポロは月に行っていないのではないか」と大まじめに信じている人がいる。
 理由は多くあって、
@ 月面に星条旗を立てる時に、真空状態で風なんてないのに旗が風になびいている。
A 同じ角度と方向から写真を撮ったのに、風景が変わったりする。実は合成写真?
B 月での光源は太陽だけなのに、写真によっては影の方向や長さが違っていたりする。
C 月面から見た空の写真には、星が写ってない。
D 月は無菌状態だったのに、帰ってきたパイロット達は長時間拘束された理由は、口裏合わせ?マインドコントロール?月に関するデーターを勉強したり覚えたりするための時間稼ぎ?
と、等々である。元々はケネディーが
「60年代の終わりまでには月に人を送る」
と言ってしまったものだから、国の威信をかけてプロジェクトになった。当時のアメリカは冷戦の中でソ連に対しての劣等感があり、国民を鼓舞する意味合いもあった。たしかに得たものが多かったが、それ以上に金を使いすぎた。そのためアポロ計画は20まであったけど、実際は17で終わってしまった。
 実はアポロ計画に関わった宇宙飛行士の多くは不自然な死を遂げており、これも陰謀論が盛り上がる原因の一つである。映画「カプリコン1」も一役かっているだろうし。アポロ計画が70年代に終わって、それ以降パタッと誰もが月に見向きしなくなった事も怪しいんだよね。

 当時のパソコンは今のと比較できないぐらいの低い能力のもので、言ってみたら僕らが今使っている電卓に毛が生えた程度の能力しかなかった。僕はこれを知った時に
「アメリカ人は電卓で人を月に送っちゃうんだ。アイツらすげえよ」
なんて素直にビックリしていた。
 上のどの疑問にも科学的な答えが実はちゃんとあって、陰謀論はただの知的ゲームになっているが・・・、実はその裏の様な陰謀論があって、
「アポロプロジェクトが打ち切りにはなって、誰もが月に見向きしなくなったのは、アポロ16が月の裏側で宇宙人に出あったからである・・・」というのがある。さて、どれが本当なのか。

陰謀論

 50年代の初めに、とある男が車を買った。これが全然普通の乗用車なのだが、おかしな事が一つだけあった。それは、燃費が以上にいい事。ガソリン1リットルでなんと160キロも走ったのである。不思議に思った男はメーカーに問い合わせるのだが、そのすぐ次の日にメーカーの従業員が家まで来て、勝った値段の5倍の金と新しい車一台の代わりにその車を引き取った。燃費が良すぎた車は実は売ってhあいけない実験段階の車だったのだが、何かの間違いで店頭に並び、買われた。
 ガソリン1リットルで160キロも走る車は実はすでに開発済みなのだが、これが流通してしまうと石油会社やエネルギー会社が困るため、その事実は隠蔽され、あたりまえのように燃費の悪い車が売られている。これは各国の政府が口裏を合わせ、自国の国民を騙している陰謀である。
 都市伝説である。陰謀関係の都市伝説は多く、他に
「アポロは本当は月に行っていない」
「エリア51に落ちた宇宙人に技術を教えてもらう代わりに、実験台にする人間の拉致を見逃している」
「世界を動かしているのはユダヤ人である」
「エイズは科学兵器であった」
「フリーメイソン」
どれも誰もが聞いた事のある話だけど、その出所は常に
「友達の友達の友達から聞いた話なんだけど・・・」
で始まる話である。不思議とどれもがとても魅力的なんだよね〜。明日から一個ずつ書いていこうかなあ。
 

PS3

 PS3に手を出すべきかどうか、それが問題である。
 いや、実際に購入の意志があったとしても在庫はない様だし、そもそも5万という価格では買う意志が生まれなそうだ。ウイイレが出るとなればまた違う話だろうけど・・・。
 思えばPS2が出た時も同じように品薄が続いた。これはもはやソニーの作戦だろう、というのが定説。当時はPS2のチップの能力が高くて、外国人が買って巡航ミサイルに組み込んでいるという噂もあったっけ。とにかく映像や処理能力がどんなにパワーアップしても、ゲームの面白さはファミコン時代に確立されている。
 仕事から帰ったら「やべっちFC」に鈴木ケイタが出ていて、髪を伸ばしている理由を「ソリンに憧れて」と言っていた。アイツはいいヤツだ。応援しよう。

代表者会議

 今日は仕事を少しさぼって@16と代表者会議に行ってきました。前期優勝のトロフィーと商品をもらってきました。商品は@16にお任せして、僕はトロフィーを持ってかえりました。我が家には昨年の準優勝のトロフィーがあるので、これで2個目になります。@15が持っているもう1個があるはずなので、FLoriano'はトロフィーを3個も獲得したチームだという事になります。もちろん、数の問題でもなく、「どの大会で」というのも多いに重要だけど、多いに結構じゃないか。僕は野球でなんこかもらった事あったけど、チームでもらうというのはこれまたいい感じだ。明日持っていきますので、お楽しみに。それからルールに改正があり、ユニフォームにチーム名を表示しないといけない、という事になったそうでう。囚人服のためのチームのワッペンを作ろうと思います。また団長に登場願いたいです。詳しい話はまた明日。

人間の価値

 おむすび君((C)@10)に60億円の価値がついたらしい。高いのか、安いのか。放映権やグッズ販売から肖像権まで含めると安いのでは、と言われているけど、1年経たないと結果はわからない。来年に今頃に結果が出ているだろう。
 1人の選手になんでそこまで金が出せるんだ?と誰もが思っている。いくら日本とアメリカの野球市場は規模が比べモノにならないと言っても、「人間の価値」に対する評価の基準が真逆でないとこんな評価にはならないはず。
 思い出すのは発光ダイオードを作った中村博士の事。200億円の訴訟を起こしながらも、もらったのは和解金としての8億円だった。中村氏は会社を辞め、アメリカに渉ってから
米国人は皆「あなたは優れた発明をしたのだから、数億円もらっているはずだ」と言われた、と話している。それで実情を正直に話すと、今度はダイレクトにこう言う。「スレイブ・ナカムラだ」と。日本ではどんなに素晴らしい発明をしても、技術者は単なるサラリーマンにすぎない。サラリーマンの給料しか、永遠にもらえない。スレイブ・ナカムラと言われたところで、最初はあまりピンとこなかった。ところが今、米国に行って約1が経ち、「私はスレイブだったんだ」と実感できるようになった。米国は、日本のように皆一緒ではない。(略)本当の「自由主義」で、優秀な技術者は多額の収入を得ていると著書に記している。
 アメリカでは特殊な才能には金を惜しまず、それだけの投資をするのが当たり前、という考えがあるのだ。そうなると、おむすび君の値段も納得できないではない。あんな球を投げられるのは人はそういない。となると自分の価値がどうなのか、非常に気になる。

日本刀

 僕が学生の時の好きな授業のなかで、与えられたテーマについてのレポートを書いて、それを発表するというのがあった。テーマを選ぶ事が出来ないので、興味がないものが当たるとやっつけ仕事になってしまうが、自分が好きなものが当たるととても楽しい授業であった。その中で僕が決して興味はなかったけど、好きになったというか、魅力を見つけたテーマが「日本刀」であった。
 日本刀というのは世界から見てもとても特殊な武器である。その製法からしもそうだけど、「侍の魂」等と言われるように、日本刀には武器としてではなく、美術品や宗教的とも言える象徴としての価値がある。また、世界の剣はその宝飾の美しさを競うが、日本刀は刀身そのものの美しさを愛でる。武器という戦争の象徴でありながらも、その対局にある「美」をも合わせ持つ刀は日本の精神を良く表していると思う。
 刀には実は実戦での評価はとても低い。戦場では役にたたなかった、というのが通説である。長距離では弓矢に負け、中距離では槍に負け、近距離では短刀の方が有利なためである。鉄砲が登場する時代ともなると、無用の長物になった。おそらくその頃から象徴としての存在になっいったのだろう。
 時代が変わって、太平洋戦争後には刀狩りがGHQによって行われた。日本にあった当時の刀は10分の1に減ったと言われている。非武装の名のもとの行動だったのだろうが、刀の意味を想うと日本人のアイデンティティをそのまま盗まれた様な気分だったに違いない。
 今残っている名刀は皮肉にもアメリカ人に救われた刀である。名前は忘れたが、刀の美術的価値を認めた軍人が、「日本の文化」として刀を残してくれたのである。僕はこの人の話を読んだときは気付かなかったが、この人は日本人の大切な何かを守ってくれたのだ。

内部不正

 映画の不正流出の一番大きな原因は実は内部不正である。映画の製作に関わる多くのスタッフの誰かがデータを持ち出したり、流したりするのだ。それが海賊版DVDになり、データになってネットを流れるのだ。公開前にはすでに違法ダウンロード出来た、なんて笑えない話もある。
 僕は仕事がら映画の発売前や公開前にサンプルを見たりするんだけど、このサンプルの管理が最近厳しくなってきた。30分ごとに「このソフトは内覧用であり・・」という邪魔この上ない注意分が右から左へと流れる。見る度に嫌な気分になってしまう。これはまだいい方。某大手配給会社のサンプルでは時計が大文字で常時表示され、商品としての価値が無いようにしている。この時計は時間、分数、秒数、そしてその下の単位まで表示していて、その動きが気になって気になって、映画に集中できない。DVDは複製が作りやすいという事で、未だにVHSを使っているメーカーも多い。とにかく海賊版との戦いはイタチごっこで、勝ち目はホトンドないと言っていい。内部に不正者がいるようでは戦えもしないんだろうけど・・・。
 

私は見ない、私は買わない

 最近映画館に行った人は見た事あると思うけど、上映前に映画著作権の保護をうたった広告が流れる。女性の顔が真正面から映り、向かって右目から涙が一粒こぼれる。その涙はいつしか黒くなり、汚れた水の中に落ち、その水に骸骨が浮かび上がる。その後文字が浮かび上がり、
「私は見ない、私は買わない」
というメッセージがでる。海賊版と違法ダウンロードを牽制する内容になっている。見る人の99%が上映前に不快な気分になる事うけおいの広告である。実際上映を拒否しようとした映画館もあった様だ。
 この広告はメジャーなハリウッド配給会社5社の配給映画上映前に流れている。日本では海賊版はそれほど問題にならないので、ハリウッドの本社に対してのポーズであって、形だけで体裁を保とうとしている結果があんなショボいCMになったのだろう。何がショボいって、それは「わかりにくい」のである。ハッキリ
「海賊版、ダウンロードは違法です」
と出せばいいのに、といつも思います。
 海外のDVDをプレイヤーにかけた時に最初に映る画面には「FB」Iと大きな表示され、その下には商品を違法に扱った時の罰金と罰則がかかれている。英語が分からなくても、そういう内容の文章なんだな、と誰もが感じる画面になっていて、初めて見た時は軽くビビリました。せっかく来てくれたお客様を犯人扱いしないためにそんな中途半端な広告が生まれたんだろうけど、あれじゃ不快になるし、逆に反抗したくなる感じがして、逆効果だ。

たちぎれ線香

 昨日の落語は「たちきり」または「たち切れ線香」と呼ばれている噺である。昨日は普通の言葉で普通に書いたけど、噺家さんが喋ればそれこそ終わりを聴いて泣き出す人はたくさんいる。が、この噺を最初に聴いたときは、僕は笑わせる話だと思っていた。たしかに悲恋の噺ではあるけど、線香が消えたと共に三味線が鳴り終わる事は
「やはり商売女は金の分だけしか遊んでくれない」
と言う意味にもとらえる事が出来る。どっちにもとらえる事が出来て、尚かつオチがちゃんとつくところにこの噺の面白さと落語の芸としてのレベルの高さが伺える。とはいえこのとらえ方はおそらく邪道で、本来は悲恋としての見方は普通なのだろう。うーん、面白い。

線香

 時計がなかった江戸時代では、芸者たちのお花代(時給)を燃え尽きた線香の本数で計っていた。客が店に入る時に線香をつけ、接待してもらった時間を線香で計っていたわけだ。
 ある若い男に両思いの芸者がいた。男は名家の出で、芸者は三味線の上手い女であった。二人の愛は本物だったが、店ので外で合う事はもちろん出来ず、男が彼女の元に通い線香を立て続けていた。
 男があまりに芸者にのめり込むので、家族は改心させようとして男を蔵に100日閉じこめる事にする。顔を出さなくなった男に芸者は毎日手紙を書くが、全て男の家族に隠される。ある日を境に手紙は来なくなり、家族は
「水商売の女なんてそんなもんか」
と安心する。
 100日が立って、男は解放され、すっかり改心した様子。安心した家族は手紙を手渡す。その一枚には
「今日来てくれなければこの世の別れになるかも知れない」
と書いてあった。驚いた男は芸者置屋に急いで向かう。女将に事情を説明すると、仏壇がある部屋に案内される。
「彼女はあなたが来ない事によって病気となり、あなたからもらった三味線を持って死んでしまいました。」
男は詫びながら、悔やみながら線香をあげる。女将に入れてもらった酒を飲んでいると、位牌の横に備えてあった三味線から芸者の得意としていた曲の音が流れる。涙を溜ながら聞き入る男・・・。すると三味線の音がピタッと止まる。
「どうした、もっと三味線の音を聴かせてくれ」
と男は涙ながらに懇願する。
そして女将が
「彼女はもう三味線を弾けません」
「何故だ?」
「たった今線香が燃え尽きました」

教育ってなんだ?いじめってなんだ?

先人たちは言った
「イジメ、カッコ悪いよ」
と。
予告自殺の期限が今日だったはず。もう日付が変わって今の所ニュースでは何もないので思いとどまったか、愉快犯だったか、という事になる。どっちにしろ良かったのだろう。
 で、テレビでは教育のあり方や現状、イジメの現状、教師たちの悩みなどが繰り返し報道されている。このやり方はいつもの「流行」、「バブル」っぽくて嫌になる。恐らく3ヶ月後には違う話題に興味が移っているのでは?何て思うと悲しくなる。とはいえ、教育というのは国の根幹に関わる問題だから、今の社会を生きる全ての人々は無視しては通れない。
 不祥事続きの学校が悪いのか、子供に携帯は持たせても給食費を払わない親が悪いのか、子供の基本的な教育もできない家庭が悪いか、はたまた社会が悪いのか、60年もの平和がこの国の精神を曲げたのか・・・・。わからん。そう、この問題の一番難しい所は、誰も答えを知らない所にある。誰しもが自分の考えをもち対策を練り、自分なりの答えをもっているのだけど、どれもが正解で間違いなんだよね。今日もTVでこの問題を取り上げた面白い番組をやっていたけど、視聴率を取っただけ終わっちゃった。この先どうなるんだろう。

化け物文化史

 で、終わってから国立博物館に向かう。ここら辺からやっとエンジンがかかり始める俺。まるでおもちゃ屋に出かける前の子供のようだ。
 以前に書いたように、妖怪というのは科学の発展の副産物ともいえ、科学の本当の目的は妖怪の発見である、といえるぐらいの親密さ。初めて日本に顕微鏡が入り、それを使った人の驚きを考えると、そのショックは計り知れない。ただの虫だと思っていた蚊やノミが怪物に見えた事だろう。それらが世界のあちこちにいて人間に知られずに生きていると考えた、どんな恐怖心や好奇心が生まれたのだろうか・・・なんて考えるとクラクラすぐぐらいに興奮する俺。当時の記録がたくさん残っていて、もちろん全部手書きなんだけど、大まじめに図鑑に「人魚」とか「河童」とかがイラストされている。顕微鏡で覗いたノミの絵はそれこそ現代のガメラのように書かれていて、当時の驚きが見て取れた。
 何が面白いって、当時の人々の視線だよね。蚊やノミは当時も今もかわらないだろうけど、時代がちがうと観点もずれるんだよね。このギャップが面白すぎ〜。常識や価値観って揺るぎないものに思えるけど、実はちがうんだよね。

お前はダリだ?

 今日の昼間は「ダリ展」に行ってきました。美術に対して全く興味がない俺、以前にも写真展に行って非常に嫌な気分になった経験のある僕なので、それ以降「アート」という言葉に身構えてしまう僕です。ちなみに土日は入場だけで2時間待ち、絵を見る時間もないぐらいの混みようの様です。
 実はすぐ隣の国立博物館で僕が見たい「化け物展」をやっていて、ダリの絵を前にカッパのミイラを想像している俺。明らかに場違い。
 ダリというのはシュールリアリズムの巨匠、曲がった時計の絵を見た事がある人は多いはず。絵を見た感想としては、
@ どうやって書くんだ?
A よく昔の絵が残っているなあ
B さわったら怒られるかなあ
が正直な所かなあ。ダリは絵の中に色んなモチーフを隠すという表現方法をしている。花の絵を見ていると実は隣の岩と合わせる顔に見える、という感じだ。パッと見は一つの絵だけど、よく見るとその中にちがう絵があるのだ。みんな絵の前に立ってあーだこーだと話している所を遠目に見る俺。やっといい感じの絵を一つ見つけタイトルを覚えるけど、これがダリの作品の中では棒にも引っかからない絵らしい。ハガキも売ってやしない。
 絵を見るには恐らくある程度の勉強と歩み寄る姿勢が必要だ。最低でも描いた人のバックグラウンドは知っておかないといけないのかな。僕みたいな「素」で見るのが一番誠実で正直だと思うんだけどなあ。少なくとも絵を描く技術に驚くべきだと思うけど、そう言う問題でもないのかなあ。構図やメッセージだけが重要ではないはず。

タブー

 サブカル系な雑誌を読んでいると、ついつい引き込まれる。サブカル系とは言ってもその範囲は広く、日本の歴史のタブーや歴史の暗部に迫まる雑誌が面白い。コンビニで売っているものから、真面目なものまで範囲がこれまた広い。どこまで信用できるのかを自分で考えるのも面白い。どんな人にも隠された部分を見たいという覗き趣味はあるし、これが歴史の中に埋もれていった大きな事件だとわくわくする程に面白い。ここで書く事がはばかれる政治的や思想的な、戦後直後のドヤ街の様子、売春、犯罪、陰謀、暴力団、新興宗教などネタはたくさんある。どれも信じていいかどうか怪しい所があるが、時たまとてもリアリティを含んだ記事がある。それを読んでいる時ははまるで大きな秘密を暴いているかのような気分になってしまうから不思議だ。

キモイ

 なんだか最近「キモイ」という言葉を良く耳にする。僕が大阪にいた時に地元のやつに「キモイ」という言葉は絶対に使うな、と言われた事がある。関東ではどうだか知らないけど、関西の人間に「キモイ」と言ったら自殺しかねないぞ!という事だった。その言い方があまりにも真剣ですごみがあったので、僕はその言葉だけは使わない様にしよう、と強く思ったのを思い出す。関西での「キモイ」はそれこそその人間の人格、価値を一切無視し、それこそ人としての尊厳を損なうぐらいの呪いの言葉、なのであったはず。
 近頃のTVでもその言葉が使われる。TVでの使用というのはそれこそ市民権を得るようなものなので、関西ではみんな嫌な想いをしているのかなあ。

お別れ

 今日は5年間乗り続けた車とお別れをしました。便宜を計ってもらって、職場まで取りに来てくれました。5年間も乗っていると別れはやはり寂しい。僕がフットサルをはじめたせいで人工芝の緑カスと美浜のチップがそこらじゅうに溢れている車であった。トランクにはボールとフットサルシューズが常に入っており、そのフットサルのせいであまり手をかける事が少なかった可哀想な車である。
 僕は車の知識が全くなく、デザインだけで選ぶような人間なんだけど、車の名前だけは気にある。実はスペイン語のものが多く、みていると楽しい。メーカーによってはラテン語やオリジナルな造語を使っている所もあるけど、女性の名前が多いのである。
 ニコラス・ケイジの映画で「60セカンズ」というのがある。ニコラス・ケイジは足を洗った元車泥棒の役。止めろというのに弟が車泥棒をしていて、失敗して人質に取られる。そして弟のために兄貴が車泥棒に戻る、というストーリーである。ニコラス・ケイジは仲間を集め、渡されたリストの車を盗んで行くんだけど、そのリストにある車を全て女の名前で呼ぶのだ。
 アメリカは広い。その国土を守り管理できたのは馬のおかげ。車というのは現代の馬であり、女性の名前をつけるのはその感謝の印、愛情の表現なんだよね。スポーツ車にはその傾向はもっと強く、それはボディの曲線が女性の身体をと重なるからであろう。

シーマ      スペイン語で頂点という意味。
プレジデント 英語で大統領、議長、会長などを意味します。
グロリア      スペイン語で栄光という意味。女性の名前でもある。
フェアレディZ  「My Feairlady」からそのままかな。
プリメーラ    スペイン語で一番の意味。
シルビア     ギリシャ神話に出てくる女性の名前。
ルキノ      ギリシャ・ローマ神話に登場する誕生の女神LUCINAから。
セリカ       スペイン語で「空からの〜」っぽい感じ。おそらく造語。
ビスタ       スペイン語で眺めという意味。

スペイン語には言葉を男性詞と女性詞に分ける事ができるので、 女性っぽい言葉を選ぶのが簡単なんだろうなあ。

俺がいても

 本日、ブログを読んで頂いている人から
「君がいない時の成績が良くないか?」
という指摘を頂きました。考えれば僕が参加したCLは2連敗、行かなかった試合は負け無し。昨日でれなかった市リーグでも引き分けるという善戦・・・。

 いや、気づいてはいたよ。気づいてはいたさ。それでも最近の試合では連続得点をしているというちょっとした自負が僕を支えていた。どんな選手にも価値がある・・・。きっとそうだ!とは思いながらも、複雑な心境。
 というわけで今日は勝てて良かった!!!ま、僕が役に立ったかは微妙な所ではあるけど、勝てればいいのだ!しかし勝っても勝っても楽にならないこの道。歩き続けるのみ!!

みんなお疲れ!

 引き分けという結果、ありがとうございます。ありがとう、という表現はおかしい様な気もするけど、そう感じたから仕方ない。自分が行かない試合の結果というのは勝っても負けても不思議な気持ちになるわけで、なれないものがあります。が、みんなの事が頼もしく見えて、非常にこれまた複雑な気分でありながらも鼻高々な気分であります。このまま明日はサクッと勝っちゃいましょう!俺込みで!

引退

 この時期になると野球選手の引退の話題になる。新庄が引退するとか、桑田がメジャーに行くとか、そういう話題はどうでもいい。一番に語らないといけないのは中日ドラゴンズの川相選手の引退についてである。
 川相と言えばバントである。世界記録を持っている時点でそのすごさはわかると思うけど、相手に警戒されているのに送りバント成功率が90%を超えているのは異常としか言えない。プロ入りした時はピッチャーだったし、1軍に定着したのが2年目、レギュラーを勝ち取ったのは6年目だという事を考えると、才能があるとか天才だとか、そういった領域ではない。もはや機械なみの数字である。ちなみに95年は47回送りバントに挑戦しているんだけど、47回成功している。これは八百長をしくんで相手選手がバントしやすい球を投げたとしても無理。100%は絶対無理。
 とはいえそこは川相選手。地味なのである。おそらくジャイアンツ史上、もっとも地味で結果を残しているのが川相選手ではないのか?。が、そのイメージとは裏腹に熱い男として知られ、乱闘要員でもあった。試合後にキレる事が多く、ロッカールーム内で暴れる事が多かったけど、それらは全て自分に対する不甲斐なさから来るものであった。24年間の現役生活を支えたのはそう言った気持ちの強さだろう。
 川相選手は練習の鬼として知られている。晩年、中日に入団してからの自主練習で新人に指導する事が多かったが、川相選手についていける選手はいなかった。

 僕が川相を好きになったのは、その守備のうまさからである。守備の上手さというのは野球でいうと一番に目立たない能力である。ボールに飛びつくファインプレイをする選手をみんな誉めるが、本当に上手い選手は飛びつかなくてもボールを捕る選手である。普通に捕ってしまうから目立たない。なぜならボールが飛んでくる前にそのポジションに移動しているから。難しいプレイを簡単にしてしまう、それが川相選手であった。晩年はショートを守る事は少なかったけど、ショートと言えば川相選手であった。

 自分が好きで、憧れた選手の引退を知るのはなんだか嬉しいような、寂しいような気分である。川相選手は僕が野球を知る前から野球をやっている訳で、野球道を全うした事はこの上なく嬉しい事である。おまけに世界記録を作った野球人生。素晴らしい。とはいえ、もう見れなくなる訳で、これはこれで寂しい。
 

インタビューその2

 で、その中学生くん達が思った以上に真面目で以外だった。僕が抱く現在の義務教育象はやる気のない生徒にあきらめた教師、学級崩壊、学力低下であるんだけど、現実はそこまで酷くないようだ。ま、ケースバイケースだろうけど、教育の道というのは確かにあって、その道を着実に進んでいる人はいるんだよね。教育というのは学校だけではなく、家庭、社会もそうだからね。学校以外で大事な事もたくさんあるし、むしろ学校以外で身になる事は多い。
 中学生の中の一人が僕の仕事にとても興味を示して、色々と聞いてきた。向こうが真剣だからこっちもいつの間にか語っていたんだけど、中学生の頃に何かに興味を示すなんてすごいなと思った。興味ある事に夢中になれるなんて素晴らしいことだし、羨ましい。僕の中学生時の頭の中は90%はエロい事、5%は野球の事、残りの5%はエロい映画の事で一杯だったからね〜。

インタビュー

 今日はインタビューを受けた。とは言っても近くの中学の生徒に、である。授業の一環で中学生が興味ある所に話を聞きに行くのだ。で、僕に白羽の矢がたって、5人で押しかけてきた。正直いうとこういった地域密着の活動を僕はあまり重要視してないのだけど、我が社長に怒られるので、とりあえず受けることにした。どの商売でもそうだけど、地元との付き合いには気を使う微妙な所があるんだよね。
 で、来たのは12歳の男子5人。中学生といえば、僕の中では人権があるのかないのか微妙なラインに立つ生物。交通の邪魔ぐらいにしか思っていないので、精一杯の笑顔を作った。
 中坊の質問に答えるのだけど、実は以前にも経験がある。ガキの質問というのは全く意味のないものか、その無意味さが一回りしてとてもいい質問に思えるもの、の二通りである。普通に
「仕事はつらいですか」
とか
「成績はどうですか」
と聞いてくるからどうすればいいのか解らない時がある。30手前の僕としては中学生というのはもはや理解不能な世代になりつつあるけど、今回来てくれた子達は感じのいい子達で、少しイメージが変わった。
 中坊らが帰った10分後、学年主任の先生が来て
「失礼な事がたくさんあったかと思うのですが、どうもすみませんでした。ありがとうございました」
とわざわざ挨拶をしてくれた。生徒に解らないように、彼らが入ってきて帰る時ま外で待っていたのだろう。先生というには大変だ。
 

| top |