2009年3月 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31  

ついに来ました!

 ついにやってきました、一年最後の日、12月31日。一年を12ヶ月に分けるグレゴリオ歴はどうやら自然な計算ではなく、天体、季節、人体への影響などを考えると欠陥だらけのものの様ですが、しったこっちゃありません。良いんです、区切りはあった方がいいです。
 思えばこの一年は綱渡りでありました。いつ負けてもおかしくない試合をなんとか消化し、なんとか勝ち上がり、なんとか切符を掴みました。そのおかげで、2007年の正月は我がチーム史上、迎える正月としては一番明るいものになりました。これは一重にみんなのおかげ、俺のおかげ、これを読んでいるあなたのおかげであります。一切接触がなかったとしても、僕らの事、僕の事をちょっとでも気にかけてくれれば、もう僕らはそれで万々歳。
 そして一年を終えて感じるのは感謝の気持ち。今一度昨年の12月31日の日記を読んでいたら、同じ気持ちでいる自分に気付きました。言いたいことがブレないそんな自分が好きです。そしてそんな気持ちにさせてくれるみんなの事が好きです。出来ることなら一人ずつ感謝の言葉を述べたいけど、恥ずかしいし面倒なのでやめておきます。とにかくありがとう。そして、できればでいいんだけど、来年の終わりにも「ありがとう」と書ける一年を作っていこうよ。僕らなら出来るはずです!では、来年もみんなが元気で、そしてフットサルが上手くなるように。一年間ありがとうございました!また来年も宜しく!

みんなも知っている

僕は知っている

みんな今年は良くやってくれた事を

私生活や仕事で無茶をして、その結果色々としっぺ返しがあったことを

誰もが疲れていてもどこかが痛くても口に出さないことを

怒られた奴のフォローを誰かが必ず行っていたことを

バラバラな個人をまとめている奴がいることを

応援してくれる人が結構いることを

そして僕はしっている

チーム発足以来、今が一番強いということ

このチームは永遠には続かないこと

そして僕らの多くにとっては最後のチームであること

来年がほぼラストチャンスであること

参入戦にでてくるチームの中でも僕らはおそらく弱い方であろうということ

だが、僕らは決して弱いわけではないということを

そしてみんなも知っている

気づいている、感じている、

僕らには「強い」を越えた何かがあることを

僕は信じています。

来年はやってやろうぜ!

携帯電話あれこれ

 実は僕も@10が言っていた携帯電話、モトローラにしようと思っていたました。モトローラの携帯というのはNOKIAと並び、海外では大手中の大手で、映画で見る度に憧れていました。 とはいえ携帯電話の機能は日本製のものが全然良く、比べ物にならない。分かりやすさ、親切さ、きめ細かさは日本の携帯の方が全然いいのです。
 僕が今使っている携帯電話をみれば分かる様に、どうもマイナーな携帯を選んでしまう傾向があって、その道のりをみると


フォトアルバム

今年

 「今年は暗いニュースが続いた暗い一年だった」
 「今年は社会の捻れが露わになった一年だった」
 「今年は日本という国の暗部が表にでた一年だった」
 「今年は教育と命の価値が再考された一年だった」
 「今年は現代がおかしい事が立証された一年だった」

 僕が社会人になり自分の責任を自分自身で負う様になってからやっと社会の事を気にしだした。学生時代の僕は親に守られており、それなりの苦労はしたがそれでも社会の厳しさとは関係のない所にいた。で、社会にでてから上の様なコメントが毎回年の瀬を飾った。
 モラルの低下、インフレ、運動能力の低下、学力の低下、政府の不正、警察の不正、国の借金、猟奇的犯罪、政治不信、家庭崩壊、売春の低年齢層化、覚醒剤、暴力、戦争、戦争犯罪、大企業の不正、管理不足による悲惨な事故。毎年のように反省するべき何かがあって、毎年の様に「良くない何か」がある。国というのは常にダメでどこか破綻している。僕らは「現在はあきらかにどこかおかしい」と思ってはいるが、僕はついに気付いちゃいました。おそらく「基本どこかおかしい」なのだ、きっと。どの時代でも、その時代を生きる人は「この社会はおかしい」と思っていて、どの時代でも「もう終わりが近い」と思っている。
 そこで絶対出てくるのが、昔はよかった的な発言。
「昔の先生の方が体罰のやり方をしっていた。愛情がこもっていた」
「昔のいじめは今ほど陰湿ではなかった」
よく考えるとそんな事は全然なく、僕の時代でも先生に殴られて鼓膜が破れた奴もいたし、いじめだってあって、それが苦で自殺したニュースもあった。たしか部活でしごかれて死んだ奴もいた。いつの時代もきっとおかしかったのだ。
 「ALWAYS 三丁目の夕陽」を見たときにそう思ったんだよね。「戦後復興のあの時は町内みんな友達でみんな明るく真面目で違いに互いに助け合い明日に夢を抱いた」的な事を描かれても、不自然すぎておかしかった。当時は今以上に厳しい格差があったハズだし、社会は殺伐としていたハズだ。
 ま、現代ではその時代なりの悩みもある。今ほど無修正画像だって簡単に見れなかっただろうし、情報だって図書館に行かないといけなかったし。犯罪も時代性を写すわけだから、その時代の犯罪になる。過去のものと比べると軽いものに見えるかも知れないけど、底辺に流れる犯罪を行う可能性は同じハズだ。
 だから、あんまり悲観的にならない方がいいのかなあ、なんて思う。今年は最高ではなかったけど最低でもないし、それは来年も同じ。

脳トレと書き順番

 DSの脳トレをやる機会があったのですが、どうも僕には向かないゲームの様です。簡単な計算を続けて解いて脳年齢を計るゲームがある。左画面に計算式がでて右に答えを書くんだけど、どんなにキレイに書いても僕の「8」と「9」を認識してくれません。どうも僕の書き順は普通の人とがちがうようで、任天堂的基準では僕の「8」と「9」は認められないようだ。
 30手前の男にアラビア数字の書き方をダメだしするなんて、DSは調子に乗りすぎていると思う。あちこちで品薄が続いて、誰もが欲しい欲しいと言っているのが原因か?本体買えないのにCMばかり流してどうする!(本体売っても全然儲からないのに・・・)

後少し

 このブログを書き出したのは2004年の9月、チームが発足してから少し経った頃であった。日記も手帳も続ける事が出来なかった僕がこれまで書き続けこれたのは、大きな奇跡だとしか言いようがありません。もちろん、僕の努力とみなさんの反応も要員の一つです。
 奇跡だと思うのは、実は今までに辞めようと思った事がないからです。どんなものでもある程度の時間をかけると悩みや疑問が生まれたりするのだが、このブログに関しては一度もなかった。フットサルを引退しようという思いが脳裏をかすめても、ブログを引退しようと思った事は一度もない。ここまで来ると「慣れはというのはおそろしい」とか「人間やればできるもんだ」というレベルを通り越して、「なんで続けられたのかがわからない」という事になります。
 このブログを読んでくれるのは僕を知っている人が圧倒的に多いと思うけど、実は全く面識のない方から励ましのメールを頂いた事も何度かあります。この時は少し怖くなったとともに、表現できないような感謝の気持ちを感じました。巡り巡り僕らはどこかで繋がっているのは本当なのか?なんて思いました。
 さて、クリスマスも終わり後は新年を待つのみとなった。来年もこの日記は続いているのかは作者の僕も知りませんが、まあ、なるようになります。あんまり心配する問題でもありません。願わくは明るいニュースが多く踊り、そして悪いニュースを笑い飛ばせる環境が僕らを包んでくれれなと思います。

平和への祈り

 戦争中にもクリスマスはある。昨年のこの日に戦争中の二つの国が「クリスマスだけは止めておこうや」と話し合って、クリスマスだけ停戦をしたエピソードを書いた。
 ベトナム戦争が泥沼化していた1969年のクリスマス、世界の12都市に巨大な看板が出現した。そこにはそれぞれの国の言葉で「戦争は終わる、あなたが望めば」と記されていた。それらの看板はジョン・レノンとヨウコが掲げたものであった。その2年後、クリスマスの定番となった「ハッピー・クリスマス<戦争は終わった>」は発表され、その平和への想いは今も歌われている。
 20世紀は戦争のミレニアムと呼ばれた。2度も大戦を繰り返した反省の弁であった。21世紀が始まってまだ何年もたっていないのに反省は活かされる事なく、状況は悪化している。同時多発テロの直後、ジョン・レノンの「イマジン」は放送禁止になったっけ。
 歴史を見ると戦争をしていない時間の方が短い。僕らは平和が普通だと思っているが、戦争がデフォルト状態で、合間に平和な時間が少しだけ挟まっているのだ。クリスマスの時期になるとみんな平和を意識し、平和ってなんじゃろ?と考える時間である。問題は僕ら(世界)は真の平和を知らない(体験したことがない)ことにあり、作り出さないといけないもの、発明しないといけないものなんだよね。
 やさしさは本能じゃない、だから鍛えないといけない。昨日の文章にはきっとそのためのヒントがある。国と国の関係は結局は人と人の関係であるわけで、人を思う事が、やさしさを鍛えることが平和への道かもしれない。

やさしさ100%

 バスに妊婦が乗ってくる。重そうなお腹をさわりながらつり革につかまっていると、若い男性が席を譲る。妊婦は笑みを浮かべながら小さな会釈、席に座る。男性が先に降りる事に。すれ違う時にまた二人は会釈を交わしあう。
 男性がバスを降りると女性がたっている。妻がバス停まで迎えに来ていたのだ。二人は笑顔を浮かべ、帰路に着く。よく見ると妻のお腹が膨らんでいる。妻も妊娠しているのだ。これを見ていた人には先ほどの妊婦の姿が浮かび、誰もが男性が席を譲った理由を深く理解する。保険のCMである。

 クリスマスと言えば、世界が同時にやさしさといたわりを意識する数少ない日である。一年の他の364日はその正反対の方向に向かっているので、ある意味とても面白い現象である。
 生きている人間なら誰でも人に優しくありたいと思う。

助け合うという気持ちや行動のもとのもとは、
いたわりという感情である。
他人の痛みを感じることと言ってもいい。
やさしさと言いかえてもいい。
「いたわり」「他人の痛みを感じること」
「やさしさ」、みな似たような言葉である。
この三つの言葉は、もともと一つの根から出ているのである。
根といっても、本能ではない。
だから私たちは訓練をしてそれを身につけねば
ならないのである。
その訓練とは、簡単なことである。
例えば、友達がころぶ。
ああ痛かったろうな、と感じる気持ちを、
そのつど自分の中でしっかり根付いていけば、
他民族へのいたわりという気持ちも湧き出てくる。


 これは司馬遼太郎の文章である。小学校の教科書に載せるために書かれたのだが、依頼した出版社が小さすぎたため教科書に載らなかった。司馬さんはこの文章に熱心に打ち込まれ、ありったけの想いを込めた。全文を読めばなぜ人間は素晴らしいのか、なぜやさしくあることがすばらしいことなのかが分かる。
 この時期になるとこの文章のことを思い出す。幸いには僕には優しくしてくれる人が何人かいて、僕も彼らを大切に思う。そういう人たちのおかげで僕の優しさは鍛えられるのである。ありがたい事だ。

全文

クラブワールドカップ

 なにやらバルセロナな負けを見てわんわん泣き出したガキが話題になっといる。バルセロナ寄りの新聞のトップ記事がこのガキでそれが本国で話題になり、探し出す事に成功した。ガキにはバルセロナから招待券や選手と会話が出来る権利などが与えられるらしい。
 実はこのガキはサッカーなんて知らず無理矢理親に連れて行かれ、巻きたくもないマフラーをまかれ、寒さのため泣き出していたら面白いなと思っていたのに、どうやら違うらしい。ガキの父親がバルセロナのソシオで、ガキ本人もサッカースクールに参加し、選手と手を繋いで入場する権利にも応募していたようで、本当にサッカーが好きな子供のよだ。非常に残念だ。

 それにしてもテレビが絡むとスポーツの見方を押しつけられているようで非常に困る。今回優勝したチームは伏兵のインテルなのに、最後までバルセロナの映像ばかりで終わるってのはどうだ?おまけにMVPをデコにあげるなんて、おかしくないか?それは
「11人のデコは11人のロナウジーニョに勝つ」
から?そのセリフは連発されていて、聞くたびに恥ずかしく思ったのは俺だけかなあ。
 主催者側からある程度のもくろみがあるのは当然で、バルセロナが優勝してくれれな丸く収まるのは誰もがわかっていたけど、スポーツは思い通りには行かない。それでも勝者をたたえるスタンスだけは普遍的でないといけない。これは明らかな辛勝だった亀田の試合を完璧な勝ちと言ってしまった事からはじまり、6位なのにセッターの竹下にMVPをあげた世界バレー、そして今回のバルセロナに繋がっている。視聴率を取れる構成が正しい事になっていて、非常に危険である。そりゃ誰もがロナウジーニョのファンタジーを見たいハズだけど、南米やアフリカのサッカーを知るチャンスを多くの人から奪ったとも言える。とはいえ一番の問題はやっぱり勝者を勝者らしく扱わなかった事だ。日本の観客の中ではインテルはただの弱小チームであり続けるんだよね〜。残念。

リベンジ

 亀田長男の防衛戦は圧勝という形になった。あの感じでは判定が3-0になっても不思議ではなく、妥当な結果だといえる。が、勝ったことで亀田長男は大きなものを失ったと思う。
 今回の試合を見た人で面白いと思えた人はいたのだろうか。亀田が注目を集めたのは破天荒なスタイル、ビッグマウス、ちょっとアレな家族、そしてKOである。良くも悪くも亀田はこれで注目を集め、人々はボクシング以上のものを見せてくれる事に夢中になった。が、今回の再戦で亀田はスタイルを完全なアウトボクシングに変え、今まで「俺のボクシング、親父のボクシング、亀田スタイル」はきれいさっぱりになくなっていた。チャンピオンになって大人のボクシングをすることは亀田スタイルの負けを認めることであり、親父の奇抜な練習には意味がなかったことを認めちゃう事にならないのかなあ。
 亀田は「亀田らしさ」があってこそ特別な存在なのに、それを捨てる事は自分の特徴をそのまま捨てることになってなんだか非常にもったいない気がする。これが完璧なアウトボクシングだったら見所もあるんだろうけど、言ってしまうと普通にしょっぱい試合なんだよね。12ラウンドもやって互いにダメージもなく、顔もきれいにリングを降りる試合は練習スパーレベルなんだ。まだ勝負に行ってカウンターを喰らってKOで負けてくれた方が魅力的なんだけどなあ。
 

俺的ランキングB

今年も色々とありました。本当に色々とあって、もはや思い出せません。ランキングを書く上で
「今年のベストマッチ」
「今年のベストゴール」
「今年のベストプレイ」
等を考えたけど、どれも判断がつかないうえ、よく覚えていないもの多い。が、この日記の過去文を読んでいると不思議と思い出すことができる。色々あったんですよ、よく思い出せば。というわけで
「2006年Floriano'事件簿ランキング」

B 罰則、ペナルティ
 今年は罰則であけ、罰則で終わった一年でありました。全部こなした結果、コートをひき、オフィシャルも出来るのでFloriano'リーグを立ち上げてもやっていけるのでは。特の@8と@22の成長度はすざましく、彼らが引いたラインは機会がひいたように正確だという。
A 新しいユニ完成
 昔の事だと思っていませんか?あのユニが出来たのは今年の5月ですよ、5月。どんなものでもそうだけど、大人数の意見をまとめるのは簡単な事ではなく、決まるまでが一番長かった。あれから何度トキワに足を運んだっけ。ユニ完成の電話が届いたのは試合後というタイミングも僕ららしくて良かった。
B 前期下位リーグ優勝、後期上位リーグ4位で参入戦切符をつかむ
 なんと言ってもコレでしょう。一年かけてやってきた意味・甲斐があるってものです。嬉しいというより、ホッとしたが正しい表現かな。

番外編
@ @6忘れ物癖絶好調
 忘れられるものは大体忘れた上、終いには人のものを持ってかえるという離れ業をかました。反省。
A 團長に第二子誕生
 う〜ん、二児のパパ。これからも格好いいパパでいておくれ。
B JAF事件
 もはや説明不要。JEFもOKだという事を忘れてはいけない。
C @15復活
 大人への道を猛進していた@15も一段落。復活した矢先大きな仕事をしてくれた。若いヤツにはブランクはないのか?

俺的ランキングA

 もうだいぶ昔のように感じるけど、W杯は今年のことだったんだよね。思い出そうとして当時のこのブログを読んでいたら、「いやー、俺っていいこと書いているな」と自画自賛してしまいました。当時は明らかにテンションが上がっている様子が文章からわかって、面白い。というわけで非常にあつかましい事でありながらも、今一度読んで欲しい記事ランキング!



B 2006/1/18 「ヘミングウェイ」  
 團長の第二子誕生を知ったときに書いたもの。親しい人の嬉しいニュースはすぐにみんなの元に広がり、知った人は全員笑顔になった。

A 2006/5/22 「3面記事」
 これまた@5関連。ある意味これでもみんな笑顔になった。

B 2006/7/7 「写真は全てを語る。」
 作るのに時間がかかったからね。途中から書いている本人もなみだ目になっていました。

 こう見ると、一年という間には色々とあったんだよね〜。長いのか短いのか。 

俺的ランキング@


 JFKほどではないにしろ、何かを背負っている、何かを本気でやっている、何かに賭けている人の言葉には特別な力がやどります。歴史上の偉人達は多くの名言を残していますが、偉人でなくても名言は生まれるものです。その時は気付かなくても、後生になってから、あの時のあの言葉の重さ、ありがたさ、格好良さに気付く瞬間がある。そう、歴史というのは言葉によって作られるものであって、僕らも歴史を作っているのです。
というわけで、
「2006年Floriano'名言ランキング」@6責任編集

D位「いいよ〜、いいよ〜」@16  
 試合のビデオを見ていると@16によって連発されているこの言葉は今年後半の僕らを良く表していると思う。精神的な柱である@16の口から出ると不思議と笑顔になってしまうわけです。
C位「やっぱ最後は気持ちだよな」@14
 試合後や練習後の@14との会話で良く聞いたのがこれ。誰もが知っている当たり前の事の様に思えるけど、実践できる人は少ない。そう、実践できない人は本当の意味で理解しているとは言えない!最終戦のゴール二つとも相手に当たって入った。気持ちがこもっていたのだ。
B位「そんな事は引退する日までないっすよ!」@20
 いつまで経っても崖っぷちから抜け出せない我がチーム。毎試合が山場。いつになったらこの連鎖から抜け出して、もう勝たなくてもいい試合が来るのかなあ・・・、という話題にシンプルでストレートな答え。
A「良かった〜、グスッグスッ・・・」@9
 最終戦試合後に抱き合いながら耳元で聴いた一言。危うく僕も涙腺が崩壊しそうでした。普段はひょうひょうとしている奴でも気持ちは同じなんだなあ、と再確認できた瞬間。
@「誰かを下手だと思ったり、バカにしたことは絶対にありません。」@4 
 普段は寡黙なアイツの中にも熱い思いがあって、それを口に出してくれた事がすごく嬉しかった一言。その口調に確かな気持ちを感じたし、なによりアイツがチームメイトで良かったと思った瞬間だった。格好いいです。実はこの言葉にチームとしてのFloriano'の精神性がとても濃く現れている。それは「仲良し」や「楽しく」という簡単なものを越え、人間と人間の関係における基本的なものを感じたんだよね。

番外編
「足つっちゃった〜」@7
 ケガあけの練習中での一言。面白いのは笑顔全開だった事。本当にフットサルしたかったんだなあ、本当に好きなんだなあと思った一言。
「いいみんな?会話はキャッチボールじゃないんだよ、ドッヂボールなんだよっ!!!!!!!」@5
 丸パクリだけど、@5ならではの味があって、大目に見れば瞬間的には本家をも越えていたと思う。
「その時俺、安心したんだよね・・・」@5
 忘年会の席での自分の在籍していたチームについての話をしながらの一言。なるほどなあ。
「何であんな所で中に入られんだよ!(怒)」@16
 間違えて立てぎりをした上、中に入られシュートを決められた僕に対する怒りの言葉。ずびばぜん〜〜。
「試合後にしましょう、試合後に」@6
 試合直前に違反があった事を伝えられた、@7,@16,@6。ちょっとした沈黙のあとの一言。俺も大人になったもんだと感じた瞬間。いいのか?
「勝てればそれでもいい。全然いい」@10
練習後に@10と帰りながら、最近俺らの立場危ないよね〜益々出れなくなるよね、なんて話していた時の一言。うーん、チーム愛。

 基本的には話合いをしている最中にいい言葉がたくさん出ている。例えエキサイトしていて荒れていても、いい言葉がでる事が多い。それはみんなが真剣に考え取り組んでいるからだと思う。その瞬間は気付かないけど後から思い出すと、アイツはあんなに真剣に考えてくれてるんだ・・・、と嬉しくなります。

総括

本年の成績は
45試合 21勝20敗5分 勝率46.6%   です。昨年度は
53試合 17勝30敗9分 勝率32.0%   でしたので、勝率は大分上がった計算になります。

得点は
高森19、山下18、伊波15、鈴木12、内野10、多田9、河村6、磯野・高山5、中村未3、蛭間・斉藤・猪俣2、福島1になります。昨年のトップは内野で22点でしたが、試合数から考える得点率は上がったことになります。

 個人的には今年は中盤ぐらいに体調を崩し、その時期が一番苦しかった。今までは体力がそこまで落ちた事は未だかってなく、少し心配になりました。少し走っただけで息が上がるなんて体験した事ないから、このまま体力が戻らなくなったらどうしょう、と本気で怖かった。
 体力が戻り、復活しだした頃にはキーパーもやったなあ。ヨシが入団してくれるまでそんな日々が続きました。当時は大変な事だと思っていたけど、今となっては良く思い出せない。そんなモンか〜。明日から色々なランキングを発表!

お疲れ様です

 今年も忘年会を開くことが出来て、なによりです。忘年会とは言っても、何かを忘れるぐらいに飲むことはなく、逆に昔のことを思い出す思出年会になってしまいました。座った席が@7、@5、@16の近くではしかたないか。とはいえ一番しんみりしていたのは僕です。
 みんなで寄せ書きをしたアレをみながら、よくこんな沢山の人間が馬鹿みたいに何年もこの活動を続けられたな、と思います。どんなものでもそうだけど、共通のバックグラウンドのない人々が同じ目標に向かって歩調を合わせるのは簡単なことではない。生活の基本である仕事でも簡単ではないのに、何がこのチームを存続させてくれたのかなあ、なんて思います。
 團長の言葉を聞きながら、4年前に初めて個人参加でボールを蹴った事を思い出した。雨上がりの、夏が終わりに近づく日だった。あの日から僕のフットサルがはじまり、それがみんなとの出会いにつながり、昨日の忘年会につながっています。その時にはまさか、千葉のど真ん中で円陣を組むことになる事は想像もしていませんでした。しかもユニ姿の奴もいるとはね。
 とにかくこういうおめでたい席が作れたことをみんなに感謝。みんなあっての事です。こういうときに「いつまでもおめでたい気分に浸っているな、まだまだ途中なんだから」とごもっともな意見をいう人がいますが、まあその通りです。でもよく考えてください。僕らに浮かれる要素がどこにあるのだ?決して強い訳でもないことはもちろん、勝ってきた試合と同じだけ負けてきた。勝ちにうぬぼれる事すら知らない。大丈夫、本当に大丈夫。なぜなら、僕は知っています。勝つことがチームを存続させる一番の薬なんだって。

ついに

 ついにやっちゃいましたね。おめでとうございます、ありがとうございます、みんな最高、オレも最高、あんたも最高!追いついては離され、また追いついくという展開。ピッチ上にいても全く疲れないのは異常なハイテンションのためでしょうか。
 思うことはたくさんあって、まるで長い歴史を背負っているように感じる。帰りに初めてフットサルをしたときの事や、当時のみんなの姿を思い出しました。謙遜せずに正直にいうと、僕らはある種の手本となりえるモデルを証明したのだと思う。努力や気持ちとか、勝ちたい方が勝つとかそんな単純なものではなく、もっとリアルなものだと思う。どうすれば下手なチームでも勝てるのか、みたいな。今現在ぴったりな言葉は見つからないんだけど、結果を出すことの大事さというか、結果を出さないといけない境遇に自分を追い込む勇気というか。さすがにこの気持ちを文字に転換するのはちょっと難しいかな。ま、忘れてはいけないのはどのモデル、手本の底辺には「気持ち」という普遍的で絶対的なものがあるってこと。
 ま、思いにふけるのは今日だけにしといてまた明日から頑張りましょう。僕らはチャレンジャーなのだから。

今更

 今更何も言うこともなければ、必要以上に考えるものも何もない。ただ出来る事をやるのみ。勝てば天国、負ければ地獄。それだって変わらない。勝ちたい方が勝つ、これも変わらない。やろう。

稲中

 この世はいつか終わる。いつか終わるけど、僕らが生きている間はとりあえず大丈夫だろう。たしかに世の中は傾いていってるけど、僕らが生きている間は、よっぽどの事がない限りとりあえず大丈夫である。悲観的になるとついつい勘違いしてしまうけど、僕らが生きている間は地球はピンピンしている。が、次の世代はどうなんだろう。
 昔読んだ本の中にこう書いてあった。
「人間は子供が出来ると守るべきものが生まれる。強くなるのだ。別の角度で言うと、死ぬ事への恐怖がなくなる。それは動物として一番の大仕事、「子孫を残す事」を達成したからだ」
なるほどなあ、と思った。人間とはいっても動物になるわけで、そういう本能があっても不思議ではない。生を生み出すことが己の死への恐怖感を克服する手段と言うことも納得できる。遺伝子レベルでの感情とも言えない何かだろうか。
 とはいえ、地球は永遠にある訳ではない。劣悪な環境になる事もそのうちあるかも知れない。今更原始時代には戻れない。地球に優しく、環境問題に興味を持ち、積極的に活動する人間でもこの流れは止められないと思っているのかも知れない。是非とも「何とかなる、大丈夫」と思って欲しいけど実際の所はどうなのだろうか。高度な研究期間ではすでに地球の寿命を記したカウントダウン時計が動いていたりして。
 冒頭に書いた本能とは正反対な生活を僕らはしているわけで、動物的本能と全く違う方向、後生への希望を少しずつ減らす文明を謳歌している。こうなると、死に向かう事が人間たる所以に思えてに皮肉である。
 「行け!稲中卓球部」の最終回はこんな感じで始まるんだよね、たしか。思い出しているうちに脱線してしまいました。

Because it is the right thing to do

来年の初め頃に「ボビー」という映画が公開される。これはJFKの弟、ロバート・ケネディが暗殺される一日と、その時現場のホテルにいた人種も年齢も社会的立場もバラバラの22名の運命を描いている。非常に気になる一本である。
 ロバート・ケネディは十分にすごい人だったけど、兄貴が偉大過ぎて日本での知名度はイマイチの様だ。キューバ危機の時にフルシチョフと非公式会談を行って核戦争を回避させたのが一番有名なエピソードかな。
 兄貴のJFKは演説の上手な大統領として有名である。後世に残る名言をいくつも残している。

「諸君は国家が何をしてくれるかと問うべきではない。諸君が国家に対して何ができるかを問わなければならない。」
「私たちみんなが、才能を等しく持ってはいない。しかし、自分の才能を伸ばしていく機会は等しく持てることでしょう。」
「自由というものは決して分割され得ない。ひとりの人間が奴隷として扱われていたら、すべての人が自由ではない。」
「私がアピ―ルするのは、あなたがたの財布じゃない。
私が当選したら、あなたがたにもっと犠牲を強いる。
私がアピ―ルしているのはあなたがたの誇りにだ」


どれも誰もが一度は聞いた事のある名文である。どれもこれ以上ない力を持つ言葉だけど、僕は弟のロバート・ケネディ(通称ボビー)の言葉が好きである。
 ボビーは兄貴の後を受け、人種差別と最後まで戦った男である。一番の厳しい時期は68年にキング.牧師暗殺された日だっただろう。インディアナポリスの黒人街でボビーは警察や側近が中止を求める中、群衆の前に姿をあらわし、
「あなた方の中には白人に対する憎しみと復讐心に燃えている者もいるかもしれない。しかし、耐えて欲しい。私の兄も殺された。白人に殺されたのだ」
このスピーチは全くの即興で、事前の打ち合わせや台本はなかった。真っ向から立ち向かったボビーに、差別と戦うキング牧師の姿を重ねたマイノリティは多く、誰もがボビーに希望を感じた。
 一番の極めつけは南アフリカを訪れた66年のスピーチ。ボビーは差別根絶を訴えながら各地を走り回った。当時の南アフリカはアパルトヘイト政権のまっただ中。政府側から見れば迷惑以外の何者でもない。そこで彼が言ったのは
「何故差別をなくさないといけないのか、Because it is the right thing to do」
「それが正しい事だから」という言葉はシンプル過ぎるが、シンプル過ぎるからこそ大きな力がある。
 ボビーは68年の6月に暗殺されていて、兄貴同様に闇の部分が多い。遺体は列車で運ばれたのだが、沿線や途中駅には様々な人種、年齢の人が並び見送った。

気になる

 最近のニュースで見たんだけど、日本代表女子ホッケーチームが北京オリンピックへの出場権を獲得した。スポーンサーをうち切られる寸前の快挙である。こういう事でもない限りTVでは見れない映像なので、非常に新鮮である。棒でボールをを巧みに操るあの姿は、やっていてとても楽しそう。というか、ちょっとやってみたい!と思ってしまったのだ。
 だが、よく考えるとあの棒(スティック)は危ない。結構危険なスポーツなのでは?浮き玉をも叩いたりするし、ボールに飛び込む事もあるみたいだから足や腕はもちろん、顔も叩かれたりする事も普通にありそう。すね当てはもちろんの事、いろんなプロテクターが必要だろうなあなんて思っていたけど、ニュースで見る選手達は案外軽装。使っているボールは野球の硬球をより固くしたものだから、どんな防具よりも恐怖心を無くす事が先かな。シュートをブロックする時も体を投げ出してるんだよね〜。男子ともなればもっとすごい事になってるのかなあ。

出会いとは

 エハラ先生がいうには、出会いとは人生で最高の宝物であるらしい。そしてどの出会いにも偶然はなく、全て必然であると。さらに、時代を越えながらも人はみんなどこかで繋がっている、ともおっしゃる。僕を知っていてこれを読んでくれている人とはもちろん、僕を知らずにこれを読んでくれる人とも、巡り巡ってどこかで繋がっているわけだ。
 我がFloriano'の結成も赤の他人の出会いから始まったもので、それ以降色んな出会いや少しの別れを経験しながら今日に至る。エハラ氏が言うように、これはきっと特別な事であろう。なぜなら、このチームがなければ僕らの人生は交差するような事がなかっただろう。それ以外で会う事はあったのかなあ、なんて想像するけど、今思えば僕らは共通点なしですね。
 そう思うと、これはある意味特別な出会いである。

そろそろ

 最近このブログを書く度にこの一年をまとめたくなって困る。今まではこの時点で全ての試合が終わって、活動も一通り終わっていたのでこの時期から極めて内輪笑い的なランキングを発表してきた。この一年で一番のゴールから始まり、一番格好良かった団員のセリフ、いそにっきは流行語大賞を発表していた。が、僕らの一年はまだ終わっておらず、戦う資格と理由がまだあるのだ。3年目にしてやっとか、という感じである。実際にはチームがある限り戦いが終わる事はない。勝たないといけない試合はいつまでも先に待ちかまえていてる。これはこれで結構大変な事であるのだが、僕らはそれを望んでいるのだ。これでいい、という瞬間は@20が言った様に、引退する日までないのだ!最後の試合を戦うまではっこの一年はまだまだ終わらない!

お疲れ様です。

 今日は出勤した時のあの寒さにみんなを思いました。悪環境の中でみんなお疲れ様です。寒いことだけでも大変なのに、その上の雨。おまけに2試合。試合と試合の間が一番大変だったのでは。お疲れ様です。色々あって結果は振るわなかったけど、まあ切り替えて次に行きましょう。行けた人、お疲れ様でした!

今日

今日12月8日は真珠湾攻撃が行われた日である。(現地の時間では7日になる)1941年のことである。そして合わせたかどうかは解らないが、明日イーストウッドの「硫黄島からの手紙」が公開される。少し前にアメリカ版である「父親たちの星条旗」のことを書いたけど、この「硫黄島からの手紙」は硫黄島での戦いを日本側からの視点で描いたものである。
 非常に恥ずかしいのだが、こういった事があるたびに日本史を少しずつ勉強している僕である。この映画を知るまでは硫黄島の存在も知りませんでした。
 ここぞとばかりに色々と勉強してみるとこれが案外面白い。特にこの硫黄島の戦いは日本の戦いの歴史の中で一つの分岐点となっている。
 予告編で
「この島を一日でも長く守ることが〜」と渡辺謙のセリフが連発されているけど、このセリフがこの戦いをとてもよく表している。
 硫黄島のように、日本軍とアメリカ軍は島の取り合いを行っていた。これはもちろん、補給物ルート確保、飛行場建設のためであった。日本は負け続け、硫黄島を前にして戦い方を変える。それまでアメリカ軍を島から追い出すように、上陸を許さない戦い方をしていたけど、硫黄島の戦いでは戦法を変える。島内にアメリカ軍を引き込んで1日でも長く戦い続ける戦法に変えたのだ。これは負けを覚悟してでの「時間稼ぎ」だったのだ。
 日本軍の敗北は確定的であった。出来ることは本島上陸に備えること。そして本島決戦で出来るだけアメリカ軍にダメージを与え、少しでも有利な講和条約を引き出すことだった。だが、そのためには時間稼ぎが必要。そして時間稼ぎを行える場所、それは沖縄であり、台湾であり、硫黄島であった。つまり、硫黄島は捨石のそのまた捨石だったのだ。 これを知っているのと知らないでは全く映画の印象がちがうはず。何事もやっぱり勉強ですな。

常識の穴

 自分が信じていたものがある日間違っていた事が分かった時の衝撃は大きなものに違いない。常識って疑う余地のないものに思えるけど、普段その信憑性を考える事がないからこそ妖しいのかもしれない。
 昨日書いた件もそうだけど、実はもう一つある。同じ上野公園にある銅像と言えば、西郷隆盛の銅像である。風雲時代の日本に活躍し、近代日本の礎を築いた偉人である。がっちりした体つきに太い眉、そしてギョロリとした大きな目玉は小学生にも分かるトレードマークである。だが、実はこれ、作られた歴史である。
 西郷隆盛は写真が嫌いなことで有名で、一枚も残っていていないのが事実。有名なあの肖像画は実は弟を元にしていて、描いたエドアルド・キヨッソーネは西郷との面識もなかった。そして上野公園の西郷隆盛像は肖像画をもとにしているので、本人とは何の接点もないのだ。兄弟と言えども中村家みたいな互いに似ていない可能性もあるので、ひょっとしたら細い顔だったのかも知れない。ここでも弟大活躍である。
 今更ちがうかも知れないと言われても、ちがう姿は想像できない。そんなつもりはないだろうけど、良く考えたらこれは一つの情報操作で、常識を操っている頃になるんだよね。怖い怖い。

歴史ミステリー

 上野公園にはボードウィン博士という偉人の銅像がある。ボードウィン博士は1860年代に日本で医療を教えまわったオランダ人である。戊辰戦争で焼け野原になった上野の山は医学校と病院予定地だったのだが、見学に訪れたボードウィンは上野の自然を大変気に入り、公園として残すよう日本政府にはたらきかけた。なんとその意見が通り、1873年に日本初の公園に指定された。で、上野公園の生みの親として上野公園には現在ボードウィンの銅像があるのだ。
 面白いのはここから。
 実は今年の10月にこの銅像が撤去されている。なんたる暴挙!弾丸を作るために?戦時中じゃないんだから!
 この銅像が作成されたのは1973年。オランダ大使館より公園指定100周年を記念して贈られたものである。が、実際はボードウィンの実弟の写真を元に作られた像であり、つまり、弟の銅像なのだ!間違った銅像が30数年もの間我が物顔でたっていたのだ。原因は単なるミスで、写真を送るときに間違って弟の写真を送っちゃっただけの話で、面白いのだが笑っていいのか分からない話である。銅像は撤去されたが、現在では正しい写真を元にした銅像が建てられている。が、この前見に行ったら周りにホームレズの集団が陣取っていて非常に近づきにくい雰囲気であった。

 

頭でっかち

 まだ野球をやっていた頃の出来事。
公園のグラウンドを借りた遊んでいた僕らはノックをしながら遊んでいた。遊びノックのやり方というのは、いかに格好よくボールを取るか、にある。わざとタイミングを遅らせてダイビングキャッチ、必要もないのにトスでダブルプレー。
 そうこうしている間に、いきなり怒鳴り声が響いた。
「違う!、そうじゃないだろ!」
と男の声だった。よく見ると公園の片隅で親子らしき中学生っぽいガキとその父親がいた。ガキは素振りをしていて、親父がそれにダメだしをしていた。どうも長い時間やっていたようで、子供はやや半泣き状態。親父が片手に細長い棒を持っていて、その先でガキの肘をピシピシ叩いていた。ガキは涙目で素振りをしながら、親父が肘が高いだの、手首の返しのタイミングが遅いだのと言っていた。

 すこし前にロッテの堀選手のインタビューを読んだ。堀選手は野球教室に出席する事があるようで、最近受ける質問の質が変わってきていると言っていた。小学生から
「アウトコースのスライダーを打つのにはどうすれば良いでしょうか」
という質問が飛んでくるらしい。面白いのは、必ず親が同席していて、その親が子供に必要以上の事を教えたがるのだそうだ。その時に掘選手がどう答えるかというと、まず素振りをしてスウィングを見せるのだそうだ。プロ選手のスウィングの音と速さを目にした子供達の目の輝きがすぐに変わる。スウィングを見せた後で、
「みんなはこのスウィングに近いものができるようになってからそういう事を考えなさい」
というのだそうだ。スウィングを間近にした子供達ははみんな「すごいすごい」を連発して、一気に思考が変わるらしい。
 僕はこれを読んだときに、すごいいい話だなと思った。プロ野球選手のスウィングというのは理屈抜きに目と心に訴えかけるものがあって、この指導法はスポーツのあり方を良く理解出来るエピソードだと思う。底辺にあるのは「楽しい」と「うまくなりたい」。そこに「憧れ」が加われば、それが一番なんだろうなあ。

右の名波

 30を前にして我が足の裏が悲鳴を上げ始めています。2ヶ月前から左あしの土踏まずの部分が痛くて痛くて、夜起きてしまう事もある。この痛みはずっと痛いわけではなく、突然ビリビリと襲ってくるので、油断していると「あああぁぁぁぁあぁぁ」と声を出してしまいます。でもまあ、こんなのは誰にでもあるもので、痛いものは我慢していればいいだけの話。風呂でマッサージして竹を踏めばいいのだ。
 「左足は右足をささえるためにある」が座右の銘の僕。実は最近良くない事が起きているのです。理由は分かりませんが、右足の甲の隆起部が大きくなって来ているのです。これは1ヶ月前ぐらいからで、ボールをインサイドで蹴ると痛くなる事があって、左足の甲と比べてみた所、大きくなっていたのです。
以下写真で説明。

フォトアルバム

これは右足しか蹴れない事による弊害に違いありません。骨が大きくなってきている感じなので、この先が不安。

決まる時は決まるもんだ

 みなさんお疲れ様です。@16ユニ拉致事件、お騒がせしました。全く身に覚えがないという事はあるもんだと思いながらも、全く言い訳の余地がない深夜3時。反省。
 今日はBELTARIDOさんとの試合という事で、普段から交流があるチームという事である意味やりにくいかなあ、とは思っておりましたが、だからこそ負けられません。負けられませんのです!
 それにしれも、決まらない時は全く持って決まらない@9、今日は試合まで一人で決めてしまった。おまけにイエローまでもらってオチまで一人で決めちゃう。できるヤツは本当にちがう。ベンチで話しながら「練習のたまもの」とか言っていたけど、僕は信じません!アイツの場合は才能だよ。そういう@9を僕は大好きなのですが。敵にいたら嫌なタイプだな。

格好いい事とは

 来年早々に30の節目を迎える事からか、最近は年を取ることの意味や、若くある事の意味を考える事が多く、そういう話題がこのブログに続きました。セビ@5がレスしてくれたように、人の意識は変わるもので、若い頃に持っていた価値観が年を取ると自然と変わる事がある。僕にも思うところがあって、
「わかるわかる〜」と思いました。
 幸い僕の周りにはいい手本がいて、素直に彼らの様に僕もなれればと思う。年は誰でも取るけど、その中身に平均はない。生きた時間の濃さが味になる。そして格好いいオヤジは「オヤジ」と呼ばれても、格好悪くない。

オヤジとい自己実現

 現在のオヤジ層、すなわち団塊ジュニアはおそらく戦後で初めて自己実現をはかれた世代であるハズ。日本を立て直した団塊世代を親にもつこの世代は戦後の影響を受けることなく、近代日本のもっとも良い時代に青春時代を贈ったハズだが、苦労も多かったハズ。もう少し生まれが早かったら自分自身で80年代後半のバブルを味わう事が出来ただろうが、彼らが社会に出る頃にはバブルははじけ、就職難の時代であった。学生時代には受験戦争のピークをも戦ったハズだし、日本の社会の苦しい期間を見てきた層である。
 彼らが初めて自己実現できた世代であると思うのは、初めて「なりたい自分になる」という事が可能になった時代だったからだ、と思う。これは社会が多様化し選択肢がたくさんあったからだけではなく、社会の精神性にも思想の自由が生まれた根付いた時代だったのでは?と思うんだよね。これは伝統や常識といわれるものの間逆にあるから、特に日本ではそう簡単なものでもはなかったはず。
 80年代から90年代後半の日本は世界でも類を見ないぐらいに楽しい時代だった。(と僕は思っている)欧米化しちゃった、といだけど・・・」
で始まる話である。不思議とどれもがとても魅力的なんだよね〜。明日から一個ずつ書いていこうかなあ。
 

| top |