この世界

 僕が子供だった頃の僕の世界では良い奴と悪い奴の区別がはっきりしていて、悪い奴はとことんワルで、良い奴はとことん良い奴らだった。だから、どんなに危ない場面でもロードランナーはコヨーテから逃げられるし、ジェリーはトムをギリギリのところでトムをかわす事が出来ると信じていた。ありとあらゆる手を尽くして襲ってくる敵を、力に劣る彼らは寸前の所でかわして笑顔を見せ、僕を安心させてくれた。
 でも、ある程度の年になってくると、実はコヨーテの方が、トムのほうが「可愛そう」なんじゃないかと思い始めたのである。コヨーテがロードランナーを襲うのは本能だし、ジェリーに至っては害獣じゃん、と気付いたのである。そういう目で見始めるとロードランナーはコヨーテを苛めているように見え、ジェリーはトムが苦しんでいるのを見て笑っているように思えた。コヨーテが返り討ちにあうたび、トムが頭を強打するたびに
「自分がどっち側の視点で見るべきなのだろうか」
と考えるようになったんだよね。もうちょっと歳を重ねると、善が必ず勝ち、悪が滅びる勧善懲悪の世界は80年代後半のスタローンの映画にしかないという事に気づいていく。なぜなら、悪者には悪者なりの言い分があり、いい奴には人には見せられない側面があるからだ。この事に気づくともうパニックだよね。だって、学校や親からは
「悪者にならない、近づかない」
という教育を受けているのに、どっちがどっちだか判断が出来ないんだから。 そんな中、「センソウ」というのがある事を知る。不思議なのは、誰もがセンソウは悪いことだと思っているのに、常になくならない事であった。ここまで来ると国対国だから、小さな自分には理解の出来ない何かがあるのだろう、と思っていた。
 で、ある日突然、
「これ、良いも悪いも、立場次第じゃないか?」
って事に気づく。大人が便利に使う時と場合って奴だ。そしてある日、
「あんまり考えても仕方ない問題かも知れない」
と考えはじめ、その時に一つ大人になったのだと思う。良いも悪いも存在していて、混沌したそのなかに自分もいて、選んだ行動によってはどっちにも転ぶことが出来てしまう、というのが生きる事なんじゃないかと、その時思ったわけです。考えないほうがいい世界よりは、ガキの頃に信じ込んでいた勧善懲悪の世界の方がまだ良いかもしれないけど、「善は必ず存在する」ことを感じることも時たまある。たとえ良い奴と悪い奴の区別が付きにくくても、それはそれでいいのかな。
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