プラダを着た悪魔

 少し前に@14のブログでもちょっとだけ出てきた「プラダを着た悪魔」という映画を観なおした。ファッションに全く興味がない女性が、ジャーナリストという夢への足がかりとしてファッション雑誌に就職し、仕事と恋とキャリアに悩みながら成長していくという、割りと単純なストーリーの映画である。主人公の女の子はファッションに全く興味がないので、細いサイズを着るために必死にダイエットをする同僚や、パッと見では絶対に気付かない服のディティールにこだわる人たちを横目で見ながらちょっと小馬鹿にしているんだけど、そんな彼女に上司が
「ファッションの存在意義」
を説くシーンがある。僕はこのくだりがすごく好きで、見事なシーンだと思っている。
 生きていくためにはファッションは必要ではない。綺麗に着飾る必要はないし、金をかけることも必要ないんだけど、世の中の多くの人はそうは思わず、結構な金をかけていたりする。それはいい事なのか、無駄な事なのかはその人の価値観次第ではあるけど、そのシーンではファッションの素晴らしさを的確に説明してくれる。
 映画の途中で主人公はダサい青いセーターを着ている。彼女はファッションに興味がないので、安いもの買ってきているんだけど、
「そのセーターが何で青いのか」
という事を説明してくれるくだりも最高である。
 この映画はお洒落な女性のための映画という受け止めかたをされているけど、実は男性でも楽しく見れる一本である。詳しい説明は書きませんので興味のある人はどうぞ!
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覗き見

 他人の不幸は蜜の味なんていうけど、ノリピー(以下Pと表記)の事を見ていると本当にそうなんだと思ってしまう。報道を見ていると、いつに間にか彼女が犯した罪ではなく、法廷の外での騒ぎ、そして彼女が転落していく様子がメインになっていて、すごく悪趣味な何かを感じる。大勢の人たちがまるでハイエナかの様に獲物に群がっている様に見えてしまう。ずっと続くPの報道を見ながら、僕はちょっと前にはやった「LIFE」というドラマを思い出した。とりあえず主人公がこれでもか!とイジメられるドラマである。
 誰かが落ちていく様にはある種の快楽があることは誰もが認めざるを得ないと思う。それが輝いてる存在だとなおさらである。自分の生活に影響があろうがなかろうが関係なく、誰の中にもある覗き見に似た感情である。
 LIFEの様なドラマや映画でも、主人公が信じられないぐらいに苛められる描写は昔からある。わかりやすい所で言えば、
「家なき子」とか
「ショーシャンクの空に」とか
ある意味では
「ロミ・ジュリ」
もそうかな。でも、大きな違いは観ている人は必ず
「苦難にあう側」
の視点に立つことである。これは観ている側が
「誰かが苦しんでいるのを見ながら喜んでいる自分」
に気付かないための手法なんだよね。
 というわけで僕はPのニュースを見たり読んだりするたびに、それを知りたい、読みたいと思っているかも知れない自分の卑しさみたいなものを見せられているようで、非常に気分が悪くなるのである。
「お前ら愚民はこういうのが好きなんだろ?」
「他人の不幸が好きなんだろ?」
「視聴率いいしねー」
と言われている気がしてならない。
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この世の終わり

 今日の帰路中、信号待ちの途中で何気なく歩道の方を見ていたら、若い男女が暗がりの中で抱き合っていた。どう見ても中学生ぐらいで、女性が男性の胸におでこを当て、男性の方が彼女の方を遠慮気に抱いている、という感じであった。見た感じでは女の子の方が泣いていて、男の子が慰めている、という感じであった。きっと今頃彼らの世界では大層なドラマが進行中で、今にも世界が終わりそうな気持ちを抱いているのだろう。実際、あの年頃の悩みというのは今思い出してもまだ心に傷が残っていたりして、いい思い出もあるけど、それと同じぐらいの嫌な思い出もあったりして、実に難しい年代である。あの頃って「ザ・ワールド・イズ・マイン」見たいに、明日にでも世の中が終わっちゃってもいいやと思うことが誰にでもあるはずである。
 でもまあ、あと何年かすればその二人だって
「そんなことあったけ」
とケロっとしていて、終いには思い出すこともなくなっていることだろう。人間案外強いものなんだよね、良くも悪くも・・・。
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心配ごと

 歳を取っていることを表すかの様に、最近では考え事の質が変わってきている。ちょっと前までは好きなあの娘のことだったり、学費のことだったり、車の事だったり、仕事の事だったんだけど、最近では「子供」に関する考え事が多い。
 昔一緒に働いたスタッフが今日子供を店につれて来てくれた。僕の弟の娘よりも小さい子供で、
「ウチの弟の娘が最近立ち出してさあ、大変なんだよー」
なんてまるで自分の子供のことかの様にしゃべっていたんだけど、喋りながら、
「うわ、俺今までした事のない会話をしている!」
と自分自身にビックリしたのである。ベビーカーに子供を乗せた元スタッフが言っていた面白い事があって、それは
「子供がずっとお母さんの事を見ていて、離れるとすぐに探し出して、いないと思うと鬼の様に泣き出す」
ということであった。子供は子供なりに考えてお母さんをどこかに行かせないようにとするらしいのだ。本当に大変だなんだろうなあ、と思いながら弟の娘の事を考えた。こっちはこっちで立てるようになって結構大変なんだよね。その時、恐ろしい考えが頭をよぎった。それは、もしかしたら子供というのは
「ずーーっと大変なんじゃないか?」
と。
・夜泣きは大変だろうし
・ちょっと成長して立てるようになったらずっと見ていないといけないだろうし
・歩けるようになったらどこに行くのか分からないので見張ってないといけないだろうし
・学校に行けば他の子供とどう接するかが怖いし
・いじめられやしないか、いじめやしないか
・勉強ができるかどうか、運動が出来るかどうか
・反抗期はどれぐらい続くのか
・受験は大丈夫かどうか
・病気をしやしないか
・悪い仲間が出来ていないか
・変な何かに手を出していないか
・異性との関係はどうか
・夜中に遊んでやしないか
とちょっと考えただけでもこれでもかと浮かんでくる。きっと親になるのはずっと「大変」なのだ。親というのは最後の瞬間まで親で、それは子供が30代40代になろうが変わらないんだよね、きっと。僕も今まで両親に死ぬほど心配させてきたと思うけど、それこそその心配は死ぬまで続くって事か。すでに親になっている皆はこの心配と向かいあっていて、これから向き合う奴もいるんだよね。それだけで尊敬です。
日々 | comments (42) | trackbacks (0)

モノの気持ち

 ついに僕のPCが動かなくなってしまった。勝手に再起動をするという症状に苦しんでいたことは前にも書いたと思う。一度はリカバリを行って直ったものの、最近また同じ症状が出始め、昨日の夜ついに立ち上がらなくなった。またWINDOWSを入れなおせばしばらくは使えるだろうか、何度も大変な作業はしたくない。ここはいい機会だと割り切って、新しいものを買おうかなと思っていた矢先の事である。
 実はPCが立ち上がらなくなる前の日の夜に新しいPCを発注済みであった。PCを買うのは5,6年ぶりだし今度は話題のWINDOWS7なので、楽しみにしていたんだよね。変な考えではあるが、新しいものを待っている僕の浮かれ気分がPCに伝わってしまって、それで動かなくなってしまったのではないかと思っている。いわばストライキみたいなものなのではと・・。
 こういうことは初めてではなくて、車や電化製品で体験したことがある。新しい物が来る前後に今まで使っていたものが壊れたり、ほかのものに興味が移ると今使っているものの調子が悪くなったりする。色んなことが起こる世の中だから、デジタルに心があっても不思議ではないかな。
散財もの | comments (288) | trackbacks (0)

ファン

 応援することも応援されることも、それはそれはとても素敵なことであります。誰かが見に来てくれる、見に来てくれてている、スタンドにいる誰かが自分を見ていると思うといつも以上に気合が入り、いつも以上の力が出せる気がするものです。
 僕も色んな人から応援を受けてきました。せめてものお礼に、試合後には必ず挨拶に行くことにしていました。それほどに嬉しいことなのですが、逆をいうと返すものがない。だから、一生懸命プレイする。いい結果を見せたくてプレイする。
 僕も現役をやめ、応援に駆けつける立場になり、スタンドで試合を見るようになりました。未だに慣れることなく、毎回毎回心臓に悪い思いをしている。勝てば嬉しいし、負けたら悔しい。でもいつも思うのは
「応援したから勝てるわけでもないし、応援しているから何かを求めるのはおかしい」ということである。
 Jリーグのチームが負けだすと、ファンとチーム、ファンとフロントが揉める話をよくテレビで見る。選手にものを投げたり、バスを取り囲んだり、責任者を呼び出したり。そしていつも思うんだけど、失礼を承知で
「サポーターってそんなにエラいの?」
ってことである。もちろんサポーターあってのチーム、サポーターあってのプロスポーツであることは理解しているけど、選手を罵倒することや、相手チームにケンカをふっかけることがチームをサポートすることになるのだろうか。
 
 応援に命をかけている人もいます。チームが海外に行ってもついていくぐらいの猛者もいるらしい。いわゆるコアなファンのことだよね。でも、これらのサポーターの立場は、たまにしか来ないサポーターより上なのでしょうか。真剣だから、熱いから、声がデカいから、知らない人に応援方法を強要したり、子供を泣かしたり、フラッグの竿で人を叩いてもいいのだろうか。

 自分のチームを応援しながら、僕は気づきました。応援することは「片思い」なんです。チームが勝ったら遠くから(スタンドから)見ながら喜び、負けたら物陰から(スタンドから)どんな雰囲気かなと覗き込む。誰かが怪我したら自分のことかのように心配する。でも片思いだから
「お前ら俺のことも気にしておけよ」
とは思わない。
「俺のために勝てよ」
とは思わない。片思いだから。これは多分プロだろうが、アマチュアだろうが、距離感はちょっと違うかも知れないけど、同じなんじゃないかと思う。
 
フットサル、サッカー | comments (13) | trackbacks (0)

死んでから評価

 マイケル・ジャクソンが予定していたツアーのリハーサル映像で構成された映画「This is it」の公開が間近になり、今週はMichaelを特集した番組が多かった。特に昨日のスマステの特集はかなり力が入っており、ナレーションが小林克也である事もあって、非常に面白かった。死んでから評価が高まるこの流れはいいものとは思えないけど、ここに来てマイケルの「実はいい人」の側面がクローズアップされている。BADツアーの全収益を実は全部寄付していたとか、ツアーで訪れた街の病院に必ず行っていたとか。今日放送されたタイトルの知らない番組では、自分の子供たちの誕生日で鼻歌を歌う様子が流れていたりと、見ている途中から涙が止まらない構成であった。生涯で200億円を寄付していたのだから、本当にすごい人物である。
 「スマステ」と「タイトルの知らない番組」が結構な時間を割いたのは、今年のMTVビデオ・ミュージック・アワードでマドンナが行った「マイケル追悼スピーチ」の様子であった。このスピーチは完全に水面下に用意されたもので前情報が全くなく、リアルタイム(アメリカでの放送よりは全然遅いけど)で見ていた僕は非常に驚き、あまりの感動的な内容に涙ぐんでしまった。そのスピーチでマドンナはマイケルとの思いでを語った。
・同じ歳に生まれた事
・同じ中西部で育った事
・同じ8人兄弟であった事
・マイケルを食事に誘った事
・その時の様子
・マイケルの死を知った時の事
・そして今、マドンナの子供たちがマイケルに夢中で、家で股間を掴みながら踊ったり、ムーンウォークをしている事
を語った。「スマステ」も「タイトル不明の番組」も似たような感じで、同じ映像を流したんだけど、実は両番組とも肝心な部分を放送していない。ホトンドの人たちはMTVなんて見ないから気づかないけど、スピーチの中での一番の重要な部分がカットされているのだ。
 スピーチの中盤で、マドンナはマイケルが児童虐待の裁判の容疑と戦っている時期についてふれているのだ。

何度か出かけましたが、その後は連絡が途絶え、魔女狩りが始まったのです。
マイケルへの批判が次々に出てきました。私には彼の痛みがわかります。
世界中が敵になったような、あの苦しみ。自分の弁護すらできない無力さ。
群集の怒号にかき消され、自分の声は届かないと思い知るのです。
でも、私には子ども時代があり、過ちを犯しても注目を浴びることなくやり直せました。

マイケルの死を知ったのは、ツアー前のロンドンでした。
彼も一週間後に公演を控えていた会場で、あの瞬間に思ったことは、「彼を見捨ててしまった」。
私たちが、彼を見捨てたのです。
かつて世界中を熱狂させた偉大な人物を、平気で見過ごしていたのです。
また仕事を始めようと努力していたとき、私たちはみなそれを冷ややかに見ていました。ほとんどの人は彼に背をむけました。


MTVを見ていた僕は、マドンナの
「みんなも彼を見捨てたよね?」
という一言に僕は深く頷き、心の中で
「良く言ってくれた!」
と思いました。マイケルが亡くなり、追悼ムードの中で町中の人たちが悲しみにくれる様子がこれでもかと放送され
「偉大なエンターテイナーを亡くした」
「信じられない」
「マイケルを愛していてた」
と涙混じりに言うんだけど、
「じゃあ、お前らマイケルが叩かれていた時に応援していたのかよ!マイケルは絶対にやっていないと信じていたのかよ!」
と思いはじめていた時のマドンナのあの言葉は最高だった。その時会場の空気が一瞬変わったから日本では放送されないのかなあ。
 未発表曲でモメたり、他殺説が出たりと相変わらず変な話題が多いが、映画が終わったらマイケルの話題は少しは落ち着くかな。悲しみはするが、すぐに忘れるのも民衆だったりするからね・・・。それにしてもマドンナ格好いい。

動画はここ
映画 | comments (18) | trackbacks (0)

動画ってすごいよね。

 ジェネレーションギャップを感じる瞬間はたくさんあるけど、今後最も大きな隔たりを感じそうなのは
「youtubeが当たり前にある時代に育った世代」
とのギャップになりそうである。
 同じ世代の人たちが集まると、子供時代や青春時代に見たもの、感じたものの話になることが多い。その世代に強烈なインパクトを残した出来事があったとすれば、誰もが覚えていて、もちろんその話をするんだけど、映像が残っているわけではないので記憶の中での話になるんだよね。youtubeが当たり前にある世代ではその動画がアップされている可能性も多く、その時に見逃していても全く同じものを共有する事が可能になる。いいか悪いかは分からないけど、その時代に、その瞬間に見る事に価値があることもあるんだよね、きっと。

 とはいえ、録画技術と再生技術のおかげで、自分と全く関係のない時代のもの映像を見れるのは感動的ですらある。



この動画にはなんと、あのアンネ・フランクが写っているのだ。結婚式を録画したものだけど、その結婚式をベランダから見ていてアンネが偶然に写っているのだ。この時のアンネは13歳で、潜伏生活に入る1年前の映像との事。

 日記を読んだことはなくても、彼女の顔を見た人は多いと思う。その写真だけでも彼女の人生を想像し、受けた苦しみに思いを巡る事は出来るんだけど、この映像を見ると今まで抱いていた印象が変わってしまう。元気で活発そうだし・・・、待ち受ける境遇がもっと強烈なものに思えちゃうんだよね。やっぱり本当に存在したんだ、本当に生きていたんだと思ってしまう。別に疑っているわけでもないのに。映像の力ってなんだか強すぎて怖い。
日々 | comments (13) | trackbacks (0)

ベッドに入る瞬間

 夜、眠りにつこうとベッドに入る時に
「ああぁ●×▽〜」
と、声にならない声を出している自分に気づく。それはもうオッサン丸出しの声で、立ち上がる時の「ヨイショッ」と同じぐらいの、人に聞かれたくない声の一つである。
 一日の仕事を終え、やらないといけない雑用をこなし、明日の準備もしっかりやって、ベッドに入る。長い一日を締める素敵な行為なのである。特にこの季節ではベッドに入るだけでも気持ちがいいんだけど、
「もう何もしなくて良い」
という精神的な安堵感も手伝って、大きな何かから開放された気がする。一日の中でも最高に気持ちのいい瞬間である。
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教えること

 信じられないことに、お尻から太ももの間にある筋肉を肉離れしてしまいました。そんなところに筋肉があるのか!そしてどんな時に使う筋肉なんだ?月曜日の個人参加の終わりごろ、変な角度で腰から落ちた時に痛みがあって、腰をやっちゃったかなあとビビッていたけど、筋肉だったようだ。まあ、どこかしら痛いのは毎回の事だからあまり気にしていなかったけど、翌朝起きたときにベッドから上がれなくて大変だった。
 良くプロのサッカー選手が肉離れで全治○ヶ月、というニュースを聞くと
「毎日蹴っていて鍛えているのにそれで肉離れになるのかよ」
と思ったりするけど、案外ささいな事でいきなりなっちゃうものなのかな。歳だし、気をつけなきゃ。

本題。

後輩やスタッフに仕事を教える時に
「教えることは自分の体をちぎって相手に与える」
と同じこなんじゃないかと毎回思う。何かを教えるという事はそれぐらいにエネルギーを要する行為で、アンパンマンが自分の頭の一部を弱った相手に差し出す事と全く同じなんじゃないかと。実際、ある程度の忍耐や愛情みたいなものも必要だし、相手に教えながら実は自分自身が気づかされることもあって「教育」というのは非常に崇高な行為なんだろうなあ、本当は。
 この歳になって今まで色んな事を教えてくれた先生たちや先輩たちの事を思うと、大変な思いをさせていたんじゃないかと不安になるけど、きっとそういうものは順番通りに行われていって、僕に順番が回ってきたって事かな。都合が良すぎる考えかたかな。
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