2006/6/20 火 | 2006.06
天は二物を与えず
小さなものが大きなものを倒す、弱いものが勝者になる可能性がある。以前にも書いたように、フットボールの魅力は「ジャイアント・キリング」にあって、これこそが世界中が一つのボールに熱中する原因である。フットボールの戦いはそのまま社会の縮図で、その歴史を見れば政治との密接な関係は一目瞭然だ。
自分の町の小さなクラブが大きなクラブに勝る。これほど嬉しくて盛り上がる事はないけど、よく考えたら生活にはなんの異変もないんだよね。それでも人々は上機嫌になって勝利を祝う。実はこの流れは意図的に操作されたものと言ってもいい。歴史が資本家対労働者の対立であるように、フットボールはその代理戦争である。こうなるとフットボールでの試合は全部が仕込まれたシナリオで、「あいつらそろそろストレスが貯まっているからここら辺でフットボールの試合でもさしといて静かにさせようよ」というもくろみが見え隠れする。
スポーツが生まれる時は常に貴族階級の娯楽としてである。貧乏人はスポーツなんてしないで働けよ、というわけだ。だが圧倒的に金がかからないサッカーだけは民衆から支持され、広まった。
ブラジルやアルゼンチンのように、かってはヨーロッパの強国の植民地であった国がなんでサッカーが強いのかがなんとなく分かる分かる気がする。そこには「強者に一泡吹かす」という労働者階級の願いと可能性は隠れているからだ。
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