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うらはらな想い

 ここ最近ずっとフットボールの事を書いていたら、ある考えが頭のなかで次第に大きくなっていった。それは
「フットボールが強かったらなんなの?」
という考えである。これはクラブ単位ではなく、国としての事である。もちろん、強い事にこした事はないけど、フットボールが強いからって国際社会の中での立場が良くなるわけではない。FIFAランキングが高いからといって国連でのポストが高くなるわけではない。強くなる必要が本当にあるのか?
 W杯が開催される度に思うことは
「アルゼンチンは今頃国として機能してないだろうなあ」
と言うことである。僕が実際に体験した大会は86年と90年だけだけど、今思い出しても異常とも言える様な盛り上がりの中で泣き叫ぶ大人達である。試合のある日は仕事に行かない、学校にも行かない。店も営業しない。これは決して嘘ではなく、僕が実際に体験した事である。学校に行ってもそこでまた騒ぐだけである。こうなるとW杯というのは普段の義務から解放される口実になってしまう。もちろん、彼らの中では「口実」という考えはなく、当たり前、なのである。
 ヨーロッパのフットボールの事はよく分からないけど、南米のフットボール熱の裏側には常に貧困や不遇の境遇が隠れている。それは喜びが大きければ大きいほど対局の不の要素も大きくなる。これらは全く持って違うものなんだけど、まるで磁石のようにセットになっている。そこで僕がいつも思うのは、もしアルゼンチンがフットボールの弱い国だったら、経済状態は今より良くなっていたのかな、という事である。
 2002年大会。アルゼンチンはついに経済が破綻し、最悪の状態にあった。代表の選手たちは「国民を元気にするために」という合い言葉の元戦ったが、結果は予選敗退だった。選手と国民はフットボールでも生活の面でも最悪の時間を過ごした。結局フットボールに一喜一憂している場合ではなかったんだ、と僕は思った。勝ったら何か変わるのか?優勝したらどん底から這い上がれるのか?
わからない。
 フットボールの強い国の国民は自分の国に誇りを持っている。それは愛国心とは違うものだけど、限りなく同じでその愛は自分の境遇を超える。それは代表の勝利は国の苦しさを一瞬でも忘れさせてくれるからであろう。そうなるフットボールを強くなる事に意味が生まれてくる。
やっぱり、分からない。
 ただブラジル代表やアルゼンチン代表の勇姿を見ると僕の脳裏にはその対局にある貧困が目に浮かぶ。彼らのきらびやかな格好良さが際だてば際だつほど、切なさが大きくなる。
 う〜ん、なんだか全くまとまらないけど、歓喜とは全く違うものが裏側に隠れているこの現実が気になってしょうがない。国が窮地に陥っている時こそオリンピックやW杯に参加するべきだとは思うけど・・・。
やっぱり分からない。

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